橋本裕の日記
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一昨夜、わが家で飼っていたハムスターのプル(プルシェンコ)が死んだ。昨年モン(モンテローザ)が死んだので、これでハムスターは二匹ともいなくなった。ハムスターを飼いたいと言い出したのは次女で、名前も次女がつけてかわいがっていた。あいにく、次女は大学の馬術部の合宿で家にいなかった。
一昨日の朝、次女が手の上においてプルちゃんを眺めていた。プルちゃんは体操選手のように檻にぶら下がり剽軽な動きで家族の笑いを誘う存在だったが、最近はすでに元気がなかった。死んだモンちゃんと同じような下痢症状があらわれ、あと余命幾ばくもないことは誰の目にもあきらかだった。
昨年の冬にモンちゃんが死んだときは、次女は居間のソファにすわり、半分居眠りしながら瀕死のモンちゃんを掌に抱いていた。モンちゃんはそうして火が消えるように飼い主の手の中でやわらかく息をひきとった。次女が家にいればプルちゃんも同じように飼い主の手の中で愛情に包まれながら死んだことだろう。
生き物を飼うということは、いつかその死を看取るということである。それはとても淋しいことだが、その死を通して、私たちは何か大切な認識に触れ合うことができる。死を通してはじめて見えてくる生命のやさしさやはかなさというものがある。
「何一つ変わっていないのに、そのひと一人だけいない感じ・・・。それがどんな感じかわかるかしら」
これは韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」のなかで、ユジンがミニョンに語りかける言葉だ。妻がプルちゃんをわが家の庭に埋葬したあと、居間に残された「プルシェンコの家」と書かれた空の籠を眺めながら、私はこのセリフを思い出した。
いくたびか我が手に抱きしハムスタアもはや動かず息ひきとりて
妻の手に白き箱ありそのなかに入れて埋めたり琵琶の木の下
形見とて見つめていたり淋しくも今は空き家のプルシェンコの家
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