橋本裕の日記
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| 2004年07月02日(金) |
浅原彰晃は救われるのか |
宗教学者の山折哲雄さんが、「悪人救済は無条件か」という題で、歎異抄の「悪人正機」について6月27日の朝日新聞にいろいろと書いている。
<この新教団の指導者である浅原彰晃こそ、まさに現代における「悪人」ではないか。とすればこの悪人は「歎異抄」のいうところにしたがって宗教的に救われるのであろうか。「いわんや悪人をや」の論理にもとづいて浄土に往生できるのか>
山折さんは、オウム真理教によるサリン事件を知ったときには、こうした問が「火の玉となって脳中を直撃した」という。浄土も地獄も信じていない私には、この問いかけは、それほど切実ではない。しかし、山折さんをはじめ、宗教を信じている人々のみならず、宗教に関心を寄せている人々にとって、これはひとつの大きなテーマであろう。
山折さんの得た結論は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説く歎異抄はまちがっているということだ。歎異抄を書いたのは、親鸞の弟子の唯円である。唯円は親鸞を裏切って、このような説をとなえたのに違いない。その証拠に、親鸞自身の主著である「教行信証」では、悪人正機説を無条件では認めていない。
親鸞は極悪人が宗教的に救済されるためには二つの条件があるという。善き師につくことと、深く懺悔することだ。浅原彰晃は善き師をもたず、また、懺悔している様子もうかがわれない。だから、救われて極楽往生することはありえないというわけだ。
私はこれはごく普通の常識だと思う。浅原彰晃は裁きを受けて、その罪の償いをしなければならない。死後、彼が極楽へ行こうが、地獄へいこうが、それはどうでもよいが、この現世において厳正な罰をうけるべきだろう。彼の場合は死刑が望ましい。
浅原彰晃が刑の執行を前にして、救われるか救われないか、それは彼個人の心の問題であろう。罪を認め、ふかく懺悔するようなことがあれば、それはとても望ましいことだが、おそらく彼の場合はそうはならないだろう。精神に変調をきたし、虚脱状態に陥るか、あるいは世の中を呪いながら、そして人類をあざけりながら死んでいくのではないだろうか。
こうした予測があたっているとすれば、彼は救われない男にはちがいない。なぜ、救われないか。それは、彼には善き師がなく、そしてその結果として、自らの罪を深く懺悔する機会が与えられなかったからだということになる。
そうすると、唯円はなぜ、親鸞の言葉として、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」などと書いたのだろうか。山折さんは、これは唯円が勝手に書いたことで、親鸞の言葉でもなく、親鸞の思想でさえもないという。だから、もはや我々はこの言葉に悩まされる必要はないという。
私はあまり「教行信証」が好きではない。私が手元においているのは「日本の名著6」の「親鸞」のなかの「現代語訳」だが、いま、久しぶりに手に取り、目を通してみたが、山折さんの言うとおり、親鸞は「仏は悪に染まったひとも等しくお導きになる」と書く一方で、無量寿経をひきながら、「仏の教えを誹謗するもには、救済の対象から除く」などと様々な条件を添えている。
唯円の「歎異抄」にくらべて、親鸞の主著は経典の引用が目立ち、何やら権威主義の匂いがして面白くない。年譜で確認してみると、「教行信証」を書いた後、親鸞はなお20年以上生きている。そして70歳を過ぎてから夥しい手紙を書くなど、本格的な著作活動をはじめている。
そのなかには、「自然法爾事」などずいぶん魅力的なものがある。そこで展開される思想は主著の「教行信証」よりも、むしろ「歎異抄」に近い。おそらく、こちらのほうが晩年の円熟した思想を伝えているのではないだろうか。私としてはやはり、「われ弟子ひとり持たず」と言い放ち、ひとり虚空に立っている親鸞が好きだ。
ところで、「教行信証」の親鸞ではなく、「歎異抄」の親鸞、もしくは唯円その人ならば、「浅原彰晃は救われるのか」という問に対してどう答えるのだろう。いや、親鸞や唯円ではなく、私自身はどう答えるのか、明日の日記に書いてみよう。
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