橋本裕の日記
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| 2004年07月01日(木) |
わが心のよくて殺さぬにはあらず |
先日、北さんと会食していて、「倫理学とはなんだろうね。倫理なんていうものはそんなにむつかしいものだろうか。命を奪ってはいけない。命を大切にしなければいけない。ただそれだけでいいのじゃないかな。西田幾多郎の『善の研究』には、何て書いてあるの?」という質問を受けた。
倫理学というのは、「何が善であるか」というのを問う学問だ。その答えとして、「命を大切にする」というのは、いちばんまっとうでわかりやすい。私も聞かれたらこう答えるだろう。しかし、命を大切にするということは、具体的にどういうことか。それは、ひとくちに言えば、「ともに生きる」ということ、すなわち「共生」ということだろう。
「共生」というと、「みなさん、みんなで仲良く生きましょう」というような、何か道徳的な目標のようにとらえられがちだが、私のいう「共生」はたんなるスローガンとしての共生ではない。生命の本質として共生を考えているのだ。
つまり生命現象というのは、その本質を考えれば「共生」である。現象面ではいろいろと競争したり、殺し合ったりもしているが、その本質は共生現象であるというのが、私の説いている共生論の眼目だ。
たとえば、「なぜ、殺してはならないか」という問について、私たちはどう答えたらよいのだろう。私の共生論の立場に立てば、答えはひとつしかない。「なぜ、殺してはならないのか」という問いかけが間違っているのだ。人間は「ほんらい」人を殺すことができない。そのような「宿縁」のもとに、人間は生まれている。
しかし、現実に、戦争や殺人は行われている。中には好きこのんで人を殺したがる人もいる。これをどう考えたらよいのか。このことについて、私が思い浮かべるのは、歎異抄の親鸞の言葉だ。
親鸞は弟子の唯円にむかって、「千人殺してご覧なさい。そうすれば往生できるよ」ととんでもないことをそそのかす。これにたいして、親鸞の思想を理解していた唯円は、すかさず、「お言葉でございますが、私の器量では、千人はおろか、一人も殺せそうにありません」と答える。これに対する親鸞の言葉が、とても深いのである。
「なにごともこころにまかせることなれば、往生のために千人ころせといはんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せずとおもふとも、百人、千人ころすことあるべし」
西田幾多郎の「善の研究」は、この親鸞の言葉を下敷きにして読むと、とてもよく分かる。私は高校時代に「歎異抄」に出合い、そして同じ頃、「善の研究」にであった。今、手元にあるその頃の愛読書をひもといてみると、当時の私は、親鸞の言葉に響きあうものとして、西田のたとえば次のような言葉に線を引いている。
<個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである>
<理は決して我々の主観的空想ではない。理は万人に共通なるのみならず、又実に客観的実在がこれによりて成立する原理である。動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるによりて得らるるのである>
もっとも、現在の私は、こうした観念論をあまり好かない。おなじ精神で「共生論」を語るにしても、もう少し、科学的、社会的な観点から論じた方がよいのではないかと思っている。しかし、「共生論」の思想的背景をさぐっていくと、「歎異抄」と「善の研究」にたどりつく。どうやらこれが私にとっての「業縁」らしい。
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