橋本裕の日記
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2004年06月18日(金) 事後的公平の世界

 日本社会は「事後的公平を重んじる社会」だといわれてきた。事後的公平とは、結果における平等である。たとえば、ここにものすごく優秀で、しかも働き者のAさんと、能力も低く、怠け者のBさんがいるとする。

 もし、アメリカ社会であれば、おそらくこの二人の収入は月とすっぽんほど違うだろう。ところが、事後的公平を重んじる日本社会ではそれほど差はでない。AさんがBさんよりも年下だったら、むしろBさんの方が高い給料をもらっているかも知れないのである。こうしたことがこれまでの日本社会ではふつうであった。

 もちろん、これが世界の常識というわけではない。とくにアングロ・サクソン型の競争社会では、日本のような平等社会はまったく理解できないことだろう。彼らの目から見れば、日本社会は恐るべき「悪平等」の社会だと映るに違いない。こうした社会では優秀な人材が育たないし、人々は平等に安住して努力しなくなり、社会は発展性を失うに違いないと考える。

 しかし、日本人はそうは考えなかった。賃金や報酬で差を付けてお互いに人間関係を損なうよりはみんな一緒がよいと考えたのである。人間がやる気を起こすのは他人よりも高給であるからではない。仕事そのものにやりがいが感じられるときだ。そして仕事を気持よくやりとげる上で一番大切なのは、チームワークだと考えたのである。

 こうした考え方をつきつめれば、「人間は能力や意欲に応じて働き、その報酬は平等にうけとる」ということになるだろう。これを「悪平等」とみるか「善き平等」とみるか、意見が分かれるところだろう。能力に応じた報酬制度がよいのか、能力を度外視した報酬制度がよいのか、いずれの社会が経済的効率性に長じているのか、この点について、まだはっきとした結論が出ているわけではない。

 1965年に故朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞したとき、博士の月給が彼の同輩とまったく同じくわずか400ドルだということが世界の新聞で書き立てられた。アメリカでは「何と科学者を冷遇する国よ」、と侮蔑的論調が主流だったが、その頃の日本人はこれをむしろ日本の美点だと感じたはずだ。

 私は湯川博士や朝永博士にあこがれて大学で物理学を専攻したが、それは決して収入の問題ではなかった。収入よりも、そうした仕事自身にやりがいを感じたからである。同じような理由で医学部に進学し、文学部や法学部に進学した人も多かった。今の日本人の考えはむしろ欧米流になってきているが、私自身は、事後的公平の原理をこれからも日本社会は大切に守っていくべきだと思っている。

 人間は生まれながらに平等だというが、これは真っ赤な嘘である。遺伝や育った環境で、その人の能力や資質はかなり左右される。こうして歴然として存在する差別を、アングロ・サクソン型の優勝劣敗の経済体制はさらに拡大することになる。現在世界で主流となりつつある経済が、どれほど馬鹿げたもので、非人間的なものか、私たちは今一度原点に立ち戻って認識する必要がある。


橋本裕 |MAILHomePage

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