橋本裕の日記
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2004年06月17日(木) もう一つの戦場

 4月15日にイラク人武装勢力から解放された高遠菜穂子さん(34)は、バクダッドで解放された直後、健気にこう語っていた。

「今は、すごく疲れて、ショックなこともあるけど、言いたいこともたくさんあるけど、嫌なこともされたけど、イラク人のことを嫌いになれないんです」

 5月20日、解放後初めて彼女は千歳市の自宅で、報道各社の代表取材に応じ、心境や拘束時の模様などを語った。拘束時の体験を語った時に言葉に詰まって中座したり、時折涙ぐんだりしたという。そうした中で語られた高遠さんの言葉をいくつか紹介しよう。

「1人がひざを抱えて私の方を見ながら『どうしたら君と友だちになれるだろう』と言った。彼の前には銃があったが、その時の彼はあまりにひ弱なただの人間で、私たちを拘束したメンバーとは思えなかったし、彼らも愛する家族を殺され、悲痛な叫びを届かせるには、この方法しか見つけられなかったのだろうと感じた」

「あれだけ親日だったイラク人が、昨年末あたりから反日感情を持つようになり、何よりも悲しい」

「戦争被害に苦しむイラクの人たちのことを考えると、今こそ武器を持たないNGOを中心とした人道支援が必要だと思う」

「(イラクの子どもたちに)絶対にあなたたちを見捨てません。必要なことは戦争を恨むことより、人を愛することだと思う」

 イラクでは人質事件のあと、二人の日本人ジャーナリストが武装勢力に殺されている。そのうちの一人、戦場ジャーナリストの橋田信介さんは、著書「イラクの中心でバカだと叫ぶ」のなかで、日本における年間3万人をこえる自殺者にふれ、もう一つの「戦場」の存在について語っている。

 イラクでは毎日数十人もの命が失われている。しかし、空爆や砲撃がない「平和」な日本で、毎日80人以上が自殺している。イラクでこの一年間に1000人以上のアメリカ兵の命がうしなわれたが、じつはアメリカ本国では1万人をこえる人間が、おなじアメリカ人の手で銃殺されている。死者の数から言えば日本やアメリカのほうが深刻なわけだ。橋田さんは、「日本にも見えない戦場がある」と書いている。

 日本やアメリカに存在する「見えない戦場」は小説や映画に描かれた「バトル・ロワイヤル」の世界にもたとえられる。「バトル・ロワイヤル」について検索したところ、こんな文章をあるHPで見つけた。

<いま、少なからぬ数の子供達が、まさしく「生き延びるため」に「戦い」を強いられてはいないでしょうか。心ならずも友達に向かって仮想のナイフをふるい、相手の「心」や「意志」や「想い」を殺すようなことが起こってはいないでしょうか。それがいじめによる殺人(自殺も含め)として表に現れたとき、私たちは身震いしますが、その前に累々と転がっているかもしれない魂の死体は見過ごしてはいないですか?

 血を流し致命傷を負ったのが内面だとすれば、行為者も罰されることはなく、傷そのものが気づかれることすら少なかったりします。もし、刺されて血を流したのが肉体だったとしたら、これは大騒ぎになり、傷つけた者、もしくはそれをは指嗾した者は犯罪者として糾弾されるでしょう。であるならは、省みられない内面の傷害事件も、外面へと投影してみれば人の注意を引くことができるのではないか。、、、これはそうして作られた物語なのではないだろうかと、私は思いました。

「あなたはこの『物語』を、残酷だと言い、不快だと拒否する。それなのに、今目の前にある同じほど残酷な『現実』には平気でいるのか」という問題提起、もしくは挑戦として。>

 ここで、最近見つかったという橋田さんの遺書を紹介しよう。橋田さんの活動拠点であったバンコクの事務所に、イラクへ取材へ行く直前に書かれた遺書が、装丁だけの自身の本『戦場特派員』に書かれていたのだという。そこには、人生で楽しかったエピソードが11個簡潔に書かれていた。6月14日「報道ステーション」で、古館氏が6つ読み上げたのだという。これもあるHPから転載させていただいた。

−−−−− 遺書 −−−−−−−
 
2003.12.20 イラク取材を前にして遺書を書く

私の人生は楽しかった。

1.小学校一年生の頃、誕生日の祝いに両親に下駄とところ天を買ってもらった。
2.小学校4年生の頃、白灯台から赤灯台まで泳いでわたった。
3.法政大学のベトナム反戦学生集会で大講堂をいっぱいにした。
4.四ッ谷の堤防で、妻幸子とファーストキスをした。
5.産まれたばかりの大介を抱いた。妻幸子の写真を撮った。
6.赤ん坊用のベッドの上で大介が微笑した。風が大介の頬をなでたのだ。
(7.〜11.略)
以上取り急ぎ。

月が満月になり
私の人生も円になった。

バグダットに
向かう日に

前記の他にはなにもなし。

2003年12月20日
不覚の
橋田信介拝

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この遺書の存在を私に教えてくれた北さんによると、「介」は両手を広げて人と手をつなごうとする絵からできていて、人と人とを「仲介」するという字だそうだ。北さんはこの「介」という字が好きで、息子さんの名前も「伸介」にしたのだという。そういえば、橋田さんも息子さんに「大介」という名前をつけている。

 橋田さんの一生も「介」という名前にふさわしい一生だった。「私の人生は楽しかった」という遺書には、橋田さんの人柄があらわれている。彼の人生がすばらしかったように、彼の遺書もすばらしい。こうした遺書は、なかなか書けない。

(参考サイト)
http://diary.jp.aol.com/qam2jxpanpm/


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