橋本裕の日記
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2004年06月13日(日) 悪法は法に非ず

<自衛隊派遣は、選挙で正当に選ばれた国民の代表が、国会の場で正規の手続きで決めたことですから、その決定が「間違っている」とか「無効だ」とか言って、阻止行動をすることはできないと思います。それをすることは民主主義の否定につながります>

 HPの掲示板に、mori0309さんからこんな書き込みをいただいた。「民主主義」について、こうした誤解が広く行き渡っているようなので、この機会に近代法の立場から、何故これが誤りであるかを指摘しておこう。

 結論からいえば、この誤解は「立法権」を絶対化するところから生まれている。三権分立の制度のもと、「立法」「行政」「司法」はそれぞれ他の権力を牽制しているわけで、「立法権」も絶対ではない。

 国会において多数決で決まられた法律でも、それが正しくないと思ったら、「違法である」と訴える権利を私たちはもっている。そしてそのような判決がでれば、いくら多数決で決められた法律も失効するわけだ。

 もう少し具体的に憲法に即して言えば、国民は参政権とともに裁判を受ける権利(裁判権)を持っているということだ。たとえば憲法第32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定し、国民の裁判を受ける権利を保障している。

 さらに憲法第81条には、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則、又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終裁判所である」と「違憲立法審査権」が明記されている。また第82条では、裁判は原則公開で、とくに政治犯罪、出版に関する犯罪、国民の基本的人権にかかわる犯罪は、「常にこれを公開しなければならない」と規定している。

 日本国憲法はこのように国民の基本的人権を司法制度によって保障している。これは、国民の裁判を受ける権利が、国民の基本的人権の実現にとって欠くことのできない権利であるという認識に立っているからだ。

 こうした憲法の条文に照らせば、我々国民が国会で決められた法律の正当性を疑い、これの実行を阻止すべく裁判で争うのは正統な権利だといえる。これは民主主義の否定ではない。むしろこれこそが、三権分立を主体とした民主主義のエッセンスだ。

 もともと裁判権は国王や領主に属していた。戦前の日本であれば天皇の大権だった。戦後の民主憲法において、主権在民の精神のもと、これが国民に属する民主的権利として認められたわけである。

 しかし、現実の問題として、司法への国民参加はほとんど実現していない。今回の司法改革で裁判員制度が成立しそうだが、残念ながらこれはアメリカの陪審制度とは似ても似つかない代物でしかない。その第一は、裁判の対象が刑事事件に限られているからだ。

 国民は裁判権を行使して、「行政」「立法」を監視する必要があるが、日本ではまだまだそこまで民主主義の精神が理解されていない。ちなみに、アメリカではどうであろうか。そこで、最近話題になった「星条旗裁判事件」を紹介しよう。

 2002年6月、カルフォルニア州高等裁判所が、「アメリカ国旗に向かって、忠誠の誓いを公立高校で日課として行うのは、合衆国憲法に違反している」という判決を出した。これにブッシュ大統領は不快感を表したが、アメリカではこのような判決がすでに連邦裁判所でも出ているということだ。裁判所が立法府や行政府の決定を覆すことも珍しいことではない。

 憲法の条項にもあるように、日本の裁判所も「違憲立法審査権」をもっている。私たちは裁判所は政府や国会の作った法を国民に守らせるのが仕事だと思っているが、そうではなく、「法律そのもの」を裁きの対象することができる。そしてここに「三権分立」の意義がある。

 しかし、民主的な手続きで選ばれるわけではない裁判官や検事が他の二権に拮抗することはむつかしい。人事権を政府に握られているうえに、事実上、政府・官僚が法律を立案し、内閣法制局の官僚がこれまた「違法審査」を肩代わりしている現状ではなおさらである。また、判事の人事権を政府から取りあげると、こんどは司法ファシズムの危険性もある。

 これを改めて、司法と国政の民主化を測るためにも、国民の司法参加が重要である。さらに、裁判員制度が、刑事訴訟だけではなく、行政訴訟や立法訴訟にまで拡大されて、はじめて日本は世界に胸を張って民主主義国家だといえるわけだ。

 首相公選制について、私はこれまでたびたび賛意を示してきたが、これにはひとつ条件がある。それは日本に「三権分立」というしっかりした民主主義の基盤が確立されているということだ。知識人の多くは、首相公選制に反対しているが、一つには「三権不分立」という日本の権力システムに不安を持っているからだろう。彼らの不安がわからないでもない。

 ところで、日本の司法制度を改革するように求めてきたのはだれあろうアメリカだった。アメリカが毎年出している「年次改革要望書」(イニシャティブ)に明記されて、日本政府はようやく重い腰をあげたというのが事実である。

 もっともアメリカのねらいは、日本の裁判制度のグローバル化に名前を借りた、経済活動の自由化(企業乗っ取り)が目的のようだ。関岡英之さんの「拒否できない日本」(文春新書)などを読むとそのことがよくわかる。これも大きな問題なので、明日の日記でこの話題を取りあげてみよう。


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