橋本裕の日記
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「会社はだれのものか」と聞かれたら、「私たち従業員のもの」と胸を張って答えた会社員が日本にはたくさんいた。今はどうだろうか。終身雇用制や年功序列制が崩れ、リストラの名前のものと大量解雇を繰り返す企業を、従業員たちも少し醒めた目で眺めるようになってきている。
そして経営者や、評論家の中にも、こうした従業員の意識変化を歓迎する発言が目立ち始めた。たとえば、5月9日の朝日新聞に、産業再生機構専務の冨山和彦さんが「カイシャの呪縛、社会に有害」という題の文章を載せている。すこし引用してみよう。
<カイシャ群を守るために、私たちは10年以上にわたりこの国の未来の競争力の源泉たる若年層を雇用機会から大幅に締め出してきた。この罪の重さに経営者世代の多くが気付いていない。(略)
今の日本の経済社会は、徳川時代末期のようなカイシャ幕藩体制にある。新陳代謝とヒトとモノの再配置がうまく機能しなくなっている。ヒトが飯を食い、より良い人生を送るための手段に過ぎない会社をカイシャとしたために、どれだけのヒトが苦しんだことだろう。
カイシャ信仰を捨てることは、経営者ならばできる。勝つための合理性を貫徹することが本来の仕事だからだ。
それでも郷愁に浸って未来に向かわない「緩い」経営者は、従業員、株主、債権者、そして結局は、社会にとって有害である>
たしかに、私たちはカイシャに過度に依存してきた。社畜や企業戦士、エコノミック・アニマルなどと呼ばれてきた。カイシャに対する忠誠心が過度になると、会社の反社会的な面にも盲目になる。その結果、さまざまな不祥事が生まれた。カイシャの従業員である前に、一人の人間であり、一人の市民であるという意識がともすれば希薄であった。
個人がこうしたカイシャの呪縛を脱することは必要だ。しかし、こうしたことが経営者や企業家のサイドに立った人たちの口から声高に語られるのを聞くと、ちょっと待てよと言う気になる。たしかに、勝つための合理性を貫徹することが本来の仕事だと考えている経営者には、こうしたカイシャ信仰を捨てることは容易だろう。しかし、こうした信仰のもとに生きてきた従業員にとって、それはそう簡単なことではない。
そもそも、勝つための合理性を貫徹することが経営者の本来の仕事だろうか。企業は利益をあげるためにだけに存在するのだろうか。企業は社会に商品を提供し、その見返りとして代金をいただく。そしてこれによって従業員の雇用を引き続き確保する。従業員の立場から見れば、これが本来の企業の姿だろう。そして、これまでに日本では経営者も従業員の一員として、これと同じような企業観を持っていたのではないだろうか。
一口に言えば、「会社は従業員のもの」という企業観である。会社を自分たちのもう一つの「家庭」のように考え、アイデンテティのよりどころにする。そうした生き方はあまりに偏るとたしかに個人主義の立場から批判することはできる。しかし、会社をたんなる飯のタネではなく、自らの一部とみる立場は日本の風土の中から生まれてきたものであり、むしろ日本の企業の国際競争力の源泉でもあった。
これに対して、「企業は資本家のもの」「企業は株主のもの」という欧米流の企業観がある。こうした企業観に立つと、経営者の仕事とは、株主のためにいかに株価を上げるかということ以外に考えられなくなる。そして株価を上げるためなら、従業員の首を切ることも厭わない。そうしないと、経営者自身の首が飛ぶからである。反対に株高に貢献すれば、たちまちにして巨額の報酬を手にする。
こうした株価第一主義の経営がほんとうに会社や社会にとって有益なのかどうか。会社を金儲けの手段としか見ない株主や経営者の手に会社を委ねたとき、従業員の帰属意識の中心であったカイシャは死滅するしかないだろう。しかし、日本はほんとうにそれでいいのだろうか。それでこの先、やっていけるのだろうか。
私は日本の企業はこれとは違った道を歩いてほしいと思っている。一部の裕福な株主のマネーゲームの産物ではなく、従業員に豊かな生活を与え、社会にさまざまな恩恵を与えることをその第一の存在理由とするような企業が、これからの日本の主流であり続けてほしい。株で儲けるためだけではなく、そうした優良企業を育てるために、私たちは株に直接投資することも必要だろう。
冨山和彦さんは日本企業のさまざまな不正や不祥事を、会社を「共同体」とみる組織至上主義の結果と捉えている。しかし、私はこれにも疑問を持っている。企業の不祥事はエンロンなど、アメリカの企業にもないわけではない。そしてその原因は、「株価第一主義」すなわち、「勝つための合理性を貫徹」した結果である。日本の企業の腐敗や不正の背景にあるのも、私はこれと同根であると考えている。
従業員を本当に大切にする会社は、社内モラルも、経営者のモラルもかえって高いはずである。そうした会社は社会の公器として、社会的にも尊敬を集めることだろう。企業を私的な金儲けの手段と見るアングロ・サクソン流の「カジノ資本主義」の跳梁を、これ以上許してはならない。守るべきは金持たちの不労所得ではなく、勤労者の生活である。
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