橋本裕の日記
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| 2004年06月06日(日) |
破壊される子供の領分 |
カナダ在住の経済学者・永谷敬三(コロンビア大学名誉教授)が著書「なかなかの国ニッポン」の中で、「道を歩いていて水たまりがあったら、入ってみたいと思うのは子供、避けて通りたい思うのが大人である」と書いている。なるほどわかりやすいたとえだと思った。もう少し引用してみよう。
<水たまりに入りそうになると、服が汚れるからやめなさいという。機械に触ろうとすると、危ないからやめなさいという。地球はどうして丸いの、丸いってことがどうしてわかるの、と聞かれると、そんなことは学校で教えてもらいなさいと逃げる。こういう大人の対応の仕方は概して大人の怠慢であって、子供の目には、冷淡、卑怯、無能としか映らない>
永谷さんは、大人はいっそのこと子供の世界にあまり口出ししないほうがよいという。ノーベル化学賞を受賞した福井謙一さんは、「親に一番感謝していることは、学校時代を通じて、勉強に一切口出ししなかったことだ」と自叙伝で述べているが、永谷さんもそうらしい。
<親が子供の勉学に口を出さないというのは、子供の出来にかかわらず、一世代前までの日本ではごくあたりまえだった。かく申す私の親も、先生のご両親同様、一切口出ししなかったし、私も先生同様にそのことを最も感謝している。(略)
文部省、教師、親が各自勝手に教育に口出しする結果は、子供の世界の汚染と破壊である。大人が子供の世界にいわば土足で入り込んできているわけだ。子供の世界の環境破壊は世界的傾向といえないわけではないが、教育に関する民主主義の歴史が浅く、子供の人権が確立されていない日本では、とくに顕著であるようにみえる>
永谷さんは「親が子供の勉学に口を出さないことのもう一つの、そしてもっと重要な効能は、子供の自由かつ独立な発想、思考、判断の能力を助長する点である」と書いている。そして、次のように結論を下している。
<健全な子供の世界を再建するには、教育にかかわる各方面の大人が、まず自らの童心を呼びもどし、子供の身になって考えること、そしてその上で、一番大事な大人の分別−−子供を黙って見守ってやること−−を心がけることであろう>
昔の大人達は、たしかに子供の教育にあまり口を出さなかった。子供の教育を実は子供たちの集団に任せていた。そして子供の喧嘩に口を出す親は最低だと考えられていた。そこには喧嘩やいじめもあったが、そうした子供の社会の中でもまれながら、生きていく上で大切な「道徳」を、それこそ体で学んで行ったのだろう。そうした体験を今の大人達は、むしろ「教育」の美名のもとに奪おうとしている。
<学校教育も例外ではない。偏差値がすべてを支配し、教師としても数学の美しさを情熱をもって教えることよりも、テストの点数を少しでも上げるつまらぬ技巧を教える方が、生徒の成績も見かけで向上するし、校長先生の覚えもめでたくなる。こうして学校教育から人間性が脱落していく>
永谷さんは、アメリカやカナダは競争的個人主義の社会だという。しかし、そうした競争的な社会にも日本のような進学塾はみあたらない。その理由は、「競争的個人主義社会で生き抜くためには、まず子供の自立心を養成することの方が知識の詰め込みより重要だと親が考えているからである」という。
カナダの名門ブリティッシュ・コロンビア大学で29年間教鞭をとった永谷さんは、北米の学生は「高校まではノンビリ少年時代を楽しみ、身体が出来上がってから大学で全力投球する」というのが基本で、とくに優秀な学生ほどこの傾向があるという。
たとえば彼の教え子で、最優秀の成績でアメリカのマサチュウセッツ工科大学の大学院に進んだ生徒など、ノンビリした環境で育っているから、自分が頭がいいことさえしらなかったが、大学では「まるで乾いたスポンジが水を吸うように」すごいスピードで何でも理解したという。そして大学院在学中に、すでに一流紙に論文を投稿するまでになった。
カナダの大学はすべて公立で、入学試験はなく、高校の最後の二年間における英語、数学、科学のいわゆる基礎科目の平均点が70点以上あればだれでも入学できるらしい。だから、「塾」などに通って、ことさら高得点を目差しても意味がない。しかし、大学に入ってからは、カナダの大学生はよく勉強するという。
「よく遊び、しかる後に、よく学ぶ」という欧米の教育システムは、かなり優れている。しかし、問題点もある。大学進学者は40パーセントと高率だが、しかし、それでも半数に満たない。問題は大学に進学しない大多数の人々は、「よく学ぶ」機会を永遠に失われかねない。その結果どういうことが起きるか。いわずとしれた、底辺層の学力崩壊である。
<平均またはそれ以下の子供たちにとっては、ドリルが基本的知識と技能を身につける唯一の方法である。これをやめると、将来労働力として役に立たない若者ができあがる。アメリカ式個人主義社会は、元来勝者のみに注目し、敗者は鼻にもかけない。この社会の人々は、最低レベルを押し上げることの意義が理解できないのだ>
日本のドリル式教育は、たしかに第一流の知性を育てるには不向きかも知れない。しかし、少なくとも底辺を押し上げるためには有効である。「ゆとり教育」の名の下に、これを切り捨てるのはどうであろうか。永谷さんは日本社会の美点である所得配分の事後的公平を維持するためには、今後とも底辺の向上を図っていくべきだと主張している。そのためには、ドリル式教育もその有効性を否定すべきではない。
<日本の詰め込み教育に欠点があるとすれば、それが大学進学の名において行われていること、「早期」があまりに早すぎることであろう。せめて小学校の低学年では道徳的価値の養成に専念し、知識の詰め込みは高学年くらいにしたら、子供たちはもっと幸せになれるだろう。空腹が食欲を活性化するように、知識欲も頭の空腹状態がないと活発にならない。(略)
ひとたび大学受験地獄が解消されれば、高校、中学、小学校と順に行きすぎた早期詰め込み教育も徐々に姿を消していくものと予想される。そうなれば、不自然な塾という子供の世界にかわって、もっと健全な子供の世界が再現する可能性がある>
私たち大人がやるべきことは、子供たちを大人の管理下に押し込めることではない。子供たちに「子供の世界」を返してやることだろう。そうすれば今問題になっている様々な問題も自ずと解決の糸口が見つかるのではないだろうか。
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