橋本裕の日記
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2004年06月04日(金) リンカーン大統領の愛読書

 日本の政治家はあまり数学に堪能ではないようである。しかし、世界の政治家はそうではない。とくにヨーロッパの政治家は数学を重視している。数学を学ぶことは、人間が人間として生きていくための基本的教養であると考えている。これは政治家に限らず、多くの教養ある欧米人がそう考えている。

 大学にはいるために、数学を不要としているのは、世界中で日本だけである。また、大学に入学してから、数学を学ばないのもおそらく日本だけだろう。たとえば、アメリカには大学が2000校ほどあるが、そのうち約1500校が数学科をもっている。600校ほどある日本の大学のなかで、数学科をもつのは60校しかない。ヨーロッパでは数学科のない大学など、ほとんど考えられないことだろう。

 数学のマセマティックスというのは、「マセイン」(考える)と「ティックス」(技術)というギリシャ語からきている。その意味は「考える技術」ということである。ギリシャ人にとって、人間(マン、メン)とは「考える動物」であった。人類に火をもたらしたプロメテウスは「先に(プロ)考える人」という意味だ。

 英語のリメンバー(思い出す)やメンション(注意)なども、ギリシャ語のメン(考える)という言葉からきている。そしてマセマティックスもここから来ている。マセマティックスを数学と訳したのは大きな誤訳であった。「思考術」とでも訳しておけば、日本でももう少し尊重されたのではないだろうか。

 遠山啓さんの「文化としての数学」(大月書店)を読むと、アメリカ建国の父の一人に数えられるフランクリンは数学に堪能で、「魔法陣」についての論文を書いているという。どうように3代目の大統領になったジェファーソンは法律を学ぶ学生にこんな手紙を書いている。

「法律の勉強にはいるまえに、十分の基礎工事をしておかねばならない。数学と自然科学は人生の日常的なことにも役立つし、とりわけそれらの学問は魅力的でおもしろいので、だれでも勉強してみたくなるほどだ。そのうえに、精神の能力というものも、体力とおなじように練習によって「つよめられるものである。だから数学的な推論や論証は、法律の難解な理論を研究するためのよい準備になるだろう」

 リンカーンはとても貧しい家に育ったので、たくさんの本を買うことはできなかった。しかし、その限られた蔵書のなかにユークリッドの「幾何学原論」があった。彼はこれを熟読することで、弁護士や政治家に必須の論証力を磨いたという。彼の伝記作家チャーンウッドの言葉を遠山さんの「文化としての数学」から孫引きしておこう。

「ある点から言うと、彼は最もよい意味で議論好きであって、ギリシャ人が弁証的とよんだようなことにたいして情熱をもっていた。一人で考えるたぐいまれな能力は彼の最も際立った偉大な武器であったが、この能力は、他の人々に論理的な確信をあたえるような形に己の思想を持っていくという願望に沿いながら用いられたのである」

 リンカーンの数学的な教養に裏打ちされた幾何学の証明のようなみごとな知性は、彼の演説や教書のいたるところに浸透しているという。たとえば、奴隷存続論者との議論でもそうであったし、他の政治的論争でもそうであった。そして彼のこの演説が、人々の心を動かしたのである。それでは、リンカーンの演説の一部を紹介しよう。

「一つの命題を打ち立てるには二つの方法がある。一つはそれを道理の上に打ち立てる方法であり、もう一つは昔の偉い人々がこう考えたといって、ひたすら権威の重みによってそれを押し通す方法である。

 もしダグラス判事が、なにかの方法で、一人の人間が他の人間を奴隷にしてもその人には抵抗する権利がない、そういうのが人民主義だと証明することができたら、しかもユークリッドが定理を証明したようにできたら、私は反対しない。

 しかし、彼がある原則を立てながら、それを否認した当の人々の権威をかさにきて、その原則をおしとおそうとするなら、彼にはそうする資格がないのだ、と私は言いたい」

 彼の演説の特徴は論理の厳しさだという。遠山さんは「この厳しい論理の鋳型の中に、深い感情が流し込まれたとき、たとえばゲティスバーグの演説のような不朽の演説が生まれたのだ」と書いている。

 数学を軽視する日本の政治家や文化人から、このような格調のある演説は生まれようがない。そして数学をただの「計算の道具」だとしか考えない日本の「受験数学」によって、数学は「思考の技術」ではなく、たんなる「得点のための技術」になりさがっている。「文化としての数学」を日本に根付かせるという遠山さんの夢が実現するのはいつの日のことだろう。


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