橋本裕の日記
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| 2004年05月31日(月) |
ゼロ・サム社会への後退 |
経済学の目標は、「資源の適切な分配」にあるといわれている。そして、資本主義経済学は、「自由で公正な市場」がこれを可能にすると説く。これが資本主義経済学の基本原理であり、いわば数学で言えば、ピタゴラスの「三平方の定理」のようなもので、これをうたがう経済学者はいない。
したがって問題は、いかにして「自由で公正な市場」を実現するかということである。そしてこれをめぐって、さまざまな議論があり、学説が出てくる。国内市場と国際市場の関わりがあり、貿易をめぐる国家間のかけひきがある。こうしたなかで、競争力の問題が発生してきた。
つまり国と国も企業同士のように「食うか食われるか」の熾烈な競争を展開しており、これに破れれば国が滅びるというのである。ここから「貿易戦争」「経済戦争」などという言葉も生まれてきた。この戦争に勝つためには、「競争力」をつけなければならないという主張である。
クルーグマンはこうした「競争力至上主義」の経済学を、正統な経済学では明確に否定された「俗説」であるという。そして、こうした俗説があたかも正統な経済理論のように流布し、幅を利かせている現状を、世界にとってとても危険な状態だと警告している。
<貿易に関する経済学者の主張をひとつのスローガンにまとめるなら、「国は企業とは違う」になる。企業は、限られた潜在利益のパイをめぐって、競合他社と競争しているといえよう。いくつかの事業分野で少なくとも競合他社に匹敵する力をもっていなければならず、そうでなければ。いずれ、事業を続けられなくなる。これに対して国は、経済競争に負けても存続できなくなることはないし、貿易は通常、競争や競合という側面より、相互の利益になる関係という側面がはるかに強い>(「良い経済学、悪い経済学」、以下も同じ)
競争に破れた企業は消滅するだろうが、競争に敗れた国家や社会が消滅することはありえない。国家や社会と企業を同一すすることがそもそもの誤りである。企業間で使われる経済競争力という概念をそもそも国家間に持ち込むことがまちがいである。しかし、こうした間違ったアナロジーが現在広く行われている。
そもそも「貿易」を通して国と国が競争するという考えが現実的ではない。現実に行われている貿易は「相互互恵」的なものであって、それは生産性に格差がある両国においても、両国とも貿易によって実質所得が上昇することが実証されている。他国との貿易によって、国民経済が圧迫されたり、壊滅することはありえない。もしそうしたことがあったとしても、それはその他のさまざまな要因が複雑にからんだ結果である。
<貿易相手国に遅れをとった国は、貿易赤字が解消できなくなり、失業者が大幅に増え、おそらくは経済が崩壊するなど、深刻な打撃を受けるという恐れが、一般には広がっている。この恐れには、根拠がない。理論的にも実際にも、生産性が低い国も貿易収支を均衡させることができる。貿易の原動力になっているのは、絶対優位ではなくて、比較優位だからである。生産性の上昇と技術の進歩を維持することはきわめて重要だ。しかし、その理由は、生産性と技術力がそれ自体で重要な点にあり、国際競争力維持のために必要な点にあるわけではない>
「比較優位」というのは、1817年にデービッド・リカードが提唱した概念で、「ほぼすべての産業で貿易相手国より生産性が低い国は、生産性の差がもっとも少ない製品(比較優位)を輸出することになる」という理論である。これについての証明は、経済学の教科書には必ず載っている。クルーグマンも実例を挙げてやさしく解説しているので、後日の日記で紹介したいと思っている。
競争力の低い産業後進国にも、先進国に対抗できる「比較優位」が生まれることからもあきらかなように、貿易は実のところ多くの人が考えているような「ゼロ・サム・ゲーム」の世界ではない。パイが限られている場合、たしかにそれはパイのぶんどり競争になる。誰かの利益は誰かの損になり、損益の合計は0である。しかし、貿易は実は相互互恵的な「プラス・サム」の世界である。
<決定的な点は、限られた市場をめぐる企業間の競争とは違って、貿易がゼロ・サム・ゲームではなく、ひとつの国の利益が他の国損失になるわけではないことだ。貿易はプラス・サム・ゲームであり、したがって、貿易に関して「競争」という言葉を使うのは、誤解を招きかねない危険なことである>
かってホップスは社会をゼロ・サムとみなして、そこから「人生は万人の万人に対する戦い」であるという結論を引き出した。しかし、ロックは資源は限られてものではなく、「人間の労働」によって新たに創造されるものだと考えた。ロックの考えた社会は、人々の相互互恵的な共生を可能にする「プラス・サムの世界」である。
このロックの思想の上に、近代的民主主義の社会が形成され、アダム・スミスにはじまる経済学の理論が作られている。これを再び、ホップスの「ゼロ・サム」へと引き戻そうとするのが、今世界を覆っている「俗流経済学」と、それを信仰する人々だ。そうした人たちの行く手には、「ゼロ・サム」の象徴である「戦争と圧政」が待ち受けているだけだろう。
競争力の問題を考えるとき、私たちは競争か共生か、いずれの社会を目差そうとしているのか、よく考えてみる必要がある。私たちの社会が本来「プラス・サム」だということを忘れ、「ゼロ・サム」を前提にした政策を実行し、そうした思想教育を施したらどういうことになるか。人類はふたたび殺伐とした「ゼロ・サム社会」へと後退するしかない。私たちはこれに対抗して、夢と希望にあふれた「プラス・サム社会の発想」を大切に守り育てたいものだ。
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