橋本裕の日記
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伊藤博文がサンフランシスコで300名あまりのアメリカ市民を前に、「日本の封建制度は、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして、わずか一年以内に撤廃することができました」と胸を張ることが出来たのは、維新政府が江戸城の無血解放と廃藩置県という奇跡のようなことをなしとげたからだ。
そしてこの両者の立て役者が西郷隆盛だった。たとえば幕府方がもし難攻不落の江戸城にたてこもったら、おそらく日本はアメリカの南北戦争以上の内乱状態に落ちいっていたにちがいない。話し合いでこうした悲劇を回避できたことは、まず第一の快挙である。
そしてこれによって確立した西郷のカリスマに目を付けたのが、伊藤博文だった。彼は「廃藩置県」のアイデアを持っていたが、これを実行する力がなかった。そこで西郷と同じ武断派の山県有朋を説き伏せ、彼を当時日本橋蠣殻町に仮住まいしていた西郷の許に行かせた。
廃藩置県というのは、全国におよそ300あった藩をすべてとりつぶし、これを中央政府の出先機関である郡や県に置き換えるという途方もない改革である。藩主や家臣団は身分を失うことになる。当時の人口にして約190万人もの士族がいっせいにリストラされるわけだ。しかしこうした途方もないことでもしなければ、日本は近代国家の仲間入りが出来ないというのが、英国をじかにその目でみたことがある伊藤の決意だった。
これを伊藤や木戸から聞かされた山県は、西郷が聴き入れなければ、刺し違えることも覚悟して、廃藩置県の必要性を西郷に説いたという。これに対し西郷は「わたしンほは、よろしゅうごわんが」といっただけといわれている。薩摩藩としては異存がないということだが、島津久光や藩士たちが大反対するであろうことは目に見えている。
山県有朋はあまりにあっさり、西郷が同意したので、その真意が理解できているのか危ぶみ、もう一度はじめから説明し直したが、西郷はふたたび頷いて、「よろしゅうごわんが」としか答えなかった。西郷もまた死を死を覚悟して、この決断をしていた。
西郷のイニシャティブのもと、明治四年、在京諸侯が朝廷に参集する中、廃藩の詔勅が下された。そして、その年の11月に岩倉使節団がアメリカに出発する。おそらく使節団派遣のアイデアの出所も「知恵袋」であった伊藤博文だろう。渡辺昇一さんも「日本を代表する12人」のなかに、このように書いている。
<岩倉使節団に加わった大物には、岩倉具視を筆頭に、薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允の名前が続き、そこからワン・ランク落ちて伊藤博文がいる。伊藤は新政府の上層部で海外を見聞した数少ない経験者の一人だった。
幕末の頃にロンドンまで行った人はあまりいない。ところが、長州藩から密出国の形で井上聞多(後の井上馨)、伊藤博文、その他に三人がロンドン留学をしている。彼らがロンドンに着いてしばらくすると、長州藩が攘夷の砲撃をはじめたという記事が新聞に載った。これを読んだ井上と伊藤は日本に飛んで帰った。二人とも「ヨーロッパというもの」をじかに見て、「こんなものと戦ってはいけない」ということを骨身に徹して知ったからだ。
そして、帰国すると、攘夷論から倒幕へと藩論の矛先を向けていった。こういうことから考えて、岩倉使節団のアイデア自体を出し、「外交関係を結ぶにしろ何にしろ、とにかく外国を見た人がいないと話にならない」と、岩倉以下を説得してまわったのが伊藤だったのではないかと私は推定している。(略)
当時はまだ内閣制度はなかったが、今で言えば閣僚に相当するものとして参議という役職があった。外国を見ていない参議には、一番力があった西郷隆盛、一番頭がよかったと言われる江藤新平、それから長州の前原一誠がいた。この三人は近代化路線に反対である。
近代化路線反対とは岩倉使節団を中心とする欧化政策、富国強兵政策反対ということだ。結局、彼らは新政府に対する反乱を起こした。まず、熊本に神風連の乱が起こった後に、江藤新平が佐賀の乱、前原一誠が萩の乱、しばらくして西郷隆盛が西南戦争を起こし、いずれも敗れた>
伊藤博文は西郷にも「外国を見てきて下さい」と言っていたという。私はふと、もし岩倉使節団に大久保利通のかわりに西郷隆盛が加わっていたらどうだろうかと考えたりする。アメリカのあの広い草原を汽車で横断したり、パリの宮殿やイギリスの造船所を見学していたらどうだろう。そうすれば、西郷の運命はまるで違ったものになっていたかも知れない。大久保も刺客に殺されることはなかっただろう。
(参考サイト) http://www.php.co.jp/bookstore/serial/12/12_2.html
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