橋本裕の日記
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| 2004年05月22日(土) |
サムライ伝説のはじまり |
1853年6月3日(旧暦)の昼下がり、ペリー提督の率いる4隻の黒船が、浦賀の沖合に姿をあらわした。ペリーの乗るサスケハナ号は大砲9門を搭載し、2000トンを超える巨大な蒸気船だった。日本の千石船はせいぜい100トンほどである。人々の目にそれは船と言うより、大島のように見えたという。
このとき通詞として黒船に乗り込んだのが、当時30歳だった堀達之助だった。彼はオランダ通詞だったが、英語もできないことはない。そんな彼が最初に発した英語は何か。アメリカの公式記録によると、それは「I can speak Dutch.」だった。堀はこれを「はなはだ立派に話した」という。
堀は「英語が話せない」とは一言もいわない。実はかなり話せたらしい。しかし、英語ではネイティブにかなうわけはない。そこで、「オランダ語が話せる」という。こうしたポジティブな発想ができるところがすばらしい。気迫で少しも負けていない。ペリー側もこれはかなりてごわい相手だと思ったのではないだろうか。
ペリー側は交渉はしかるべき地位のある相手でなければだめだという。ペリー自身はアメリカ大統領の名代だという立場があるから、幕府側にも将軍かそれに準じる最高位の相手を求める。しかし、幕府は面子があるので、将軍はおろか重役さえ出てこようとしない。というか完全に腰が引けているのである。こうした事情を察していた堀は、同行した下っ端役人の与力をさして、「この方が副総督である」と紹介した。英語で「Vice governor」と記録されているという。もちろんこれは大嘘だ。
さらに堀は相手の主張を逆手にとって、ペリーの副官との交渉を堂々と要求し、これに成功した。さらに堀は翌日、別の香山という与力を伴い、「この方が総督である」と、これもまたとんでもない大嘘をつき、とうとうペリーその人を交渉の場に引き出すことに成功する。ペリー側との交渉は数日間に及び、最後に船を下りるとき、堀は再び英語を口にしたが、それは「Want to go home」だったという。明石康さんの「サムライと英語」から引用してみよう。
<国書受け取りの段取りが決まった後、船上でささやかなパーティが行われた。この時、香山、堀ら幕府役人たちの態度の立派さにペリーたちは感服したと記録している。日本人は世界のことを知らないだろうとタカをくくってか、アメリカ人が地球儀を見せたところ、サムライたちはすぐにワシントンとニューヨークの位置を的確に指さし、ほかにもイギリス、フランス、デンマークを指し示した。また、アメリカのトンネル技術の進歩やパナマ運河の工事の状態を訊ねたり、エンジンの原理についての質問を繰り返すサムライたちの向上心に、ペリー達は感心している>
ペリーが帰国したとき、アメリカは南部と北部の激しい対立のなかにあった。この対立の中、彼の業績は評価されることもなく、帰国して3年後の1858年に失望の中でひっそり亡くなったという。ペリーが帰国後書いた論文が、大英博物館に保存されているという。そこにはこんな記述があるという。
「私は、世界のどの地域においても、ヨーロッパですら、日本人のように気取りのない優雅さと威厳を持つ人々に出会ったことがなく、ことに身分の高い人々の物腰はみごとであった」
私が思うに、このときペリーの相手をしたのが、幕府や藩の高官だったらどうだろうか。印象はまたずいぶん違ったものになったのではないだろうか。体制の上にあぐらをかいていた上層部の愚鈍さや腐敗をペリー達は見せつけられたに違いないからだ。ペリーと渡り合い、日本人の評価を高めた堀達之助もその業績は日本では評価されなかった。むしろ幕府の上層部からにらまれ、獄中生活を余儀なくさせられている。
現在、「samurai」はウエブスターにものる立派な英語になっている。世界中に通用し、外国人に一番有名な日本語と言っていいだろう。「サムライ」はハリウッド映画にもなった。その伝説の始まりが、ペリーの来航だった。そこでペリーは堀達之助や吉田松陰といった、それこそ第一級のサムライたちに出会ったのである。
(参考文献) 「サムライと英語」 (明石康、角川oneテーマ21、2004年)
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