橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
昨日、長岡京の市立産業文化会館で「戦争を語り継ぐML」主宰のオフ会があった。主宰者の西羽潔さんの挨拶の後、飛び入りもふくめ15名ほどの参加者がそれぞれ自己紹介をした。そして木村繁二郎さんの貴重なシベリヤ抑留体験を聴いた。一方的な話ではなく、参加者からも積極的な質問がなされ、「シベリア決死行」を書かれた岡崎渓子さんのシベリヤ抑留についての解説もまじえながら、午後1時から始まった会は予定を延長して5時近くまで続いた。
終戦時に在満日本人の総数は155万人、そのうち22万人以上の人が戦死、餓死、凍死し、70万人ほどの若い男達がソ連に抑留されたと思われる。そしてソ連に連行された人々の上にも過酷な運命が待ち受けていた。
シベリアの冬はマイナス40度を越える厳寒だと言うが、私には想像もつかない。これは寒いというより痛いという感覚の世界だという。鉄道の貨車がつくと、真夜中でも荷揚げの作業にかりだされる。木村さんも最後は肺病にかかってしまったらしい。
木村さんはこれを克服して、3年数ヶ月に及ぶ抑留体験のあと、九死に一生を得て引き上げてくるわけだが、引き揚げ船になかなか乗せてもらえない。3度目の正直で自分の名前が呼び上げられたときは、タラップを上がりながら泣き続けたという。私の父はシベリア抑留こそ免れたが、同じく満州から引揚者である。同じような感激を味わったのだろうと、今はない父のことを思い、「ほんとうに、ご苦労さんでした」とおもわず涙ぐんだ。
シベリヤ抑留中のさまざまなエピソードはかって本で読んだことがあるが、やはり体験者からじかに話を聞くと迫力が違った。この厳寒に地で、多くの男達が過酷な労働と栄養失調にくるしみ、ときには蛇を食べたり、雑草を食べて腹をこわしたこともあるという。とくに過酷だったのは、人が住まない原野の収容所に入れられ、鉄道の敷設工事にかかわった人たちで、木村さんもその一人だった。
多くの人たちがここで死んだ。埋葬するとき、普段は着ない一番いい服を着せたという。ロシア兵は「死人にもったいない」というが、日本人はだれも勿体ないとはおもわない。一番よい衣服を着て、死出の旅路につかせてやりたいと、だれもがそう願ったという。これはとても心の温まるよい話だと思った。
木村さんや岡崎さんの話を聴いていて、強く思ったことは、結局戦争でひどい目にあうのは下っ端の兵隊や民間人だったということだ。たとえば関東軍の一部の軍人達は逃げ足が早かった。中国人に人体実験をした731部隊などは、ソ連参戦ときくやいなや研究所を焼き払い、石井四郎中将は飛行機で朝鮮に飛び、やすやすと日本に帰国したのだという。一般の兵隊や満蒙開拓団の人々はこうした情報はとどかなかった。そして悲惨な体験を味わうことになる。これは今も、世界で起こっている現実なのだろう。
参加者の中には若い人も何人か出席してくれた。私の隣りに坐っていた青年は高校3年生だったが、ノートをひろげ、木村さんの話を熱心にメモをしていた。木村さんはこうしたつらい話はあまりしたくないのだという。しかし、体験者がどんどん少なくなっていくなかで、木村さんがあえて自ら体験した戦争の赤裸々な現実を語られることは計り知れない価値のあることだと思う。こうした貴重な戦争体験が、若い世代の人々に受け継がれていくことが大切なのだろう。
5時半から隣のレストランに席を移して、7人ほどでさらに食事をしながら、木村さんや岡崎さんから話をきいた。イラク戦争での米英軍によるイラク人虐待や、捕虜になった高遠さんや今井さんなどにも話が及び、大いに盛り上がった。「戦争を語り継ぐML」ならではのほんとうに実りのあるオフ会だった。
|