橋本裕の日記
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漂泊の俳人、尾崎放哉には「足」や「足のうら」を詠んだ俳句がたくさんある。萩原井泉水にあてた手紙でも、「たよる処は一に精神修養、足のウラの呼吸であります」と書いている。道教には「真人の息は踵を以てす」という言葉があるらしい。
足のうら洗へば白くなる (放哉) 人間の健康にとっても、足の裏はもっとも大切なところだ。人間は全体重をふたつの足の裏でうけとめる。そして足の裏で、人間は大地に立つ。足のうらを痛めれば、人間は大地を踏みしめて歩くことができない。
1984年にペシャワールの病院に赴任して、らいの治療をはじめた中村医師は、診察に訪れる人々の多くが足に病気を持っているに気付く。らい患者100人のうち68人が足に感覚障害をもっていたが、その中にあしのうらに穴が空いている(足底穿孔症)者が14名、足が変形している者が10人もいた。
こうした多くの人々が足に障害をかかえているのは、履き物が悪いせいである。中村医師は赴任した当時から、寝ても覚めても履き物のことを考えるようになったという。「アフガニスタンの診療所から」にこう書いている。
<ペシャワールのような貧しい医療事情では、患者の社会生活に打撃をあたえぬためにも、病院に財政的負担をかけぬためにも、予防的な局面が大切である。患者の履物を見ると、たいていは固い革に釘をふんだんにうちこんで修理を重ねたサンダルをはいており、ひどい代物であった。これでは足に傷ができぬほうがおかしい。日本で考えればたかがサンダルと思われようが、貧民層にはかんたんに買いかえられるほど安いものではなく、あらい岩石の道の多い山間部ではことのほか大切であった>
すでにこのことは欧米のミッション団体も気付いており、パキスタンの大都市では、巨費を投じてワークショップを運営していた。そこで最先端の技術をつかって作られる製品がありながら、現地の人々はこれを履こうとしない。中村医師が日本製の製品を与えても、喜ぶのははじめだけで、やがてはかなくなる。釘だらけのひどいサンダルに戻ってしまう。その理由は強い伝統志向があって、別のかたちのものを受け付けないということらしい。
このことに気付いた中村医師は地元のバザールを回って、サンダルを次々と買い込み、自分で履いて回って分解し、快適さ、工夫の余地、耐久性、革の質、素材、コストその他を調べたのだという。らい病棟でサンダルを偏執狂のように分解していると、「先生は靴をこわすワークショップを作ろうとしているのか」と皮肉もいわれたが、中村さんは「嚥雀いずくんぞ鴻鵠の志しを・・・」とつぶやいて、せっせとサンダルを分解していたという。
<こうして得た結論はすばらしいものだった。パシュトゥンの伝統的スタイルのサンダルは、丈夫でやわらかい革を選び、釘を使用せず、足底に接する面にラバー・スポンジをおけば、そのまま立派なうらきず予防のサンダルとなるのである。適度のカーブと弾力性が、風土に合わせて長い年月のうちおに伝統の中に工夫されていたのである>
こうして地元の伝統的なサンダルのよさに気付いた中村医師は、これをベースにして医療的に改良した試作品をつくり、これを売り出すことをはじめた。一足につき400円程度の材料を現物寄付し、これを200程の値段で売る。そして売りあげをワークショップで働く者に労賃としてあたえる。ただで与えればせっかくのサンダルが粗末に扱われる。この方式が成功し、1986年にオープンしたペシャワール会のサンダル・ワークショップは、現在も続いているという。
建物といっても質素なれんが作りの小屋で、他の大都市の本格的な設備にくらべれば、規模は二桁も三桁も小さいが、機能は数倍勝っているのだという。中村医師は国際援助の多くが土地に住む人間を忘れて事業そのものが自己目的化しているのを苦々しく見てきた。そうした見せかけばかりの事業が横行するなかで、地元の伝統に根ざしたサンダル作りは、地味ではあったが地元に根を張ることができた。中村医師は「我われの働きのひとつの金字塔であった」と胸を張っている。
これは「援助」のすばらしいお手本だ。現地のひとびとの「足のうら」に視線がいくのがすばらしい。これこそがほんとうに「地に足が着いた援助」と言えるのだろう。
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