橋本裕の日記
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2004年05月05日(水) 与えることの喜び

 1983年に「らい撲滅作戦」の担い手としてペシャワールの病院に赴任した中村哲医師は、ソ連軍のアフガン侵攻にともない、ゾクゾクと国境を越えて押し寄せてくる難民と向かい合うことになった。押し寄せる難民は北西辺境州だけで300万人になろうとしていた。

 中村医師は「アフガニスタン計画」を立案し、こうした難民への医療を決断する。1986年の夏、中村さんは資金を得るために日本に帰る。しかし、なかなか援助に応じてくれる人が見つからなかった。

「好きなことをして結構な身分だな。日本じゃ皆けっこう苦しいんだ」
「日本だって困っている人はいくらもあるんだ。何もこと変わった所で」
「そりゃあ、立派なことをしているとは思うよ。しかし世間ってものは・・・」
「おれたちちゃ、税金はらっているんだ。外務省にでも相談したら」

<まるで異物を排除して等質であるであることを強制するような合意が日本社会にはある。ある種の底意地の悪い冷厳な不文律が、いかようにも説得力のある拒絶の理由を提供するように思えた。ペシャワールから急に帰国した私にとって、これは得体の知れぬものであった>(アフガニスタンの診療所から)

 たしかに「アフガニスタン計画」は途方もいない夢物語である。そして誰がそんな夢物語を信じることができよう。現在の私たちはペシャワール会の圧倒的な業績を知っているが、当時の世間の目に中村医師のペシャワール会はまったく無名であり、「おおぼら吹き」「ペテン師」と写ったとしても不思議はない。

 中村さんは、「その時の自分のありさまは、わが子を救おうとして他人に必死で懇願する親の姿に似ていたであろう。だが、日本社会の持つゆとりのなさは、ソ連軍以上に圧倒的な壁であった」と書いている。「善意が力となりにくい構造的な壁」を感じたという。

 しかし中村医師はあきらめなかった。そして、この壁を破ることに成功する。名古屋のあるグループがセンター建設と車両の寄贈を申し出てくれた。九州の病院グループからは、らい病棟の改築と継続的な支援をとりつけた。岡山の国立らい療養所は専門医と技師の派遣を約束してくれた。

 中村さんは、「いつの時代でも、わが身をけずって人に与えることを喜びとし、殺伐な世相に明るさをふりまく変わり者がいるものである」と書くが、そのなかでも彼自身が一番の「変わり者」に違いない。

 ペシャワールには物乞いが多いらしい。しかも尊大だという。「神は喜ばれます」と言って当然のように手を出してくる。これにたいして、中村医師も「私はらい患者を助けるためにやってきた。あなたも私にほどこしをしなさい。神がよろこばれますぞ」と逆襲したという。そうしたところ、その乞食は驚いたことに躊躇なく集めた小銭を中村さんに差し出したのだという。

<私はまさかとは思ったが、つまらぬ議論に神をひきあいにだし、何か大切なものを冒涜したような気がしておそれを覚えた。同時に、純朴な人たちだと思った。以後、我われもこれを採用し、「貧しい人に愛の手を」などというみじめたらしい募金はせず、「神は喜ばれます」とこそ言わないが、年金暮らしの1000円も、大口寄付の数百万円も、等価のものとして一様に感謝してお金をいただくことにしている。現地の人は心まで貧しくないのである。(略)

 我われは貧しい国へ「協力」にでかけたはずであった。しかし我われはほんとうにゆたかだろうか。ほんとうに進んでいるのだろうか。ほんとうに平和だろうか。胸をはって「こうすれば幸せになります」といえるものを持っているのだろうか>

 ペシャワールでは乞食ですら誇り高く生きている。それにくらべて清潔な住居に住み、高級な車を運転し、ブランドに身を包んでいる日本人達の何と軽薄でうすっぺらに見えることだろう。アフガンでは武装ゲリラでさえ、もっと身近でわかりやすく、厚みのある「人間」に思われる。中村医師は日本に帰ってくるたびに、アフガンやペシャワールが懐かしくなるという。それはペシャワールの喧噪には、東京の雑踏にはない「愛すべき人間くささ」があるからだという。


橋本裕 |MAILHomePage

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