橋本裕の日記
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| 2004年05月03日(月) |
アフガンに魅せられた男 |
中村哲医師がはじめてアフガニスタンの地を訪れたのは、1978年6月のことだという。彼は福岡の山岳会のテイリーチ・ミル遠征隊に参加した。標高7708メートルを誇るテイリーチ・ミルはヒンズークシ山脈の最高峰である。そのときの印象を中村さんは、「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)にこう書いている。
<山岳地帯の村落は、瓦礫のような岩石砂漠の中で人口のオアシスとして散在している。強烈な陽光とまばゆい白雪をいただく荒々しい山塊のもとで、すべてのものが壮大な自然をとおして啓示される力の前にひれふしているように見える。(略)
山岳地帯の住民は自給自足で、現金収入は極端に少ない。日本では常識とされている治療はまず不可能といってよい。こんなところに生まれなくてよかったとわりきれればそれまでだが、私はどうしてもそれができなかった。みちすがら、一目で病人と分かる村人に「待ってください」と追いすがられながら見捨てざるを得なかった。重い気持でキャラバンの楽しさも半減してしまった。
その後なぜだかわからない。私はつかれたように機会をみつけては現地をおとづれた。バザールの喧噪や荒っぽい人情、モスクから流れる祈りの声、荒涼たる岩石砂漠、インダスの濁流。すべてこれら異質な風土も、かえってなじみ深い土地に帰ってくるような不思議な郷愁にとらわれるのだった。そして、こざかしい日本人論をこえて、人はやはり人であるという、当然だがみょうな確信を得てほっとするのである。(略)
私をひきつけるアフガニスタンの魅力のひとつは、その壮大な多様性にある。歴史的な重層性は古代から現代までおよび、民族集団も全ユーラシアの種族を網羅する。まるで数千年の歴史が圧縮されたように、過去の民族・宗教が存在する。
ローマに討たれて散ったユダヤ人、古代ペルシャのゾロアスター教徒、アレキサンダー帝国を継承したギリシャ系住民、侵入したサラセン帝国やモンゴリアの末裔、モンゴル人に追われたイスマイリ教団、東方から追われて南下したトルコ民族、ジプシー……、島国の住民たる我われには想像を絶する規模だ。しかも、それらが伝統的形態を守ってたがいに共存している。・・・人びとは異質な生活集団と共存する知恵、「国際性」とでもいうべき広大な容量をそなえている> 1979年12月に奥さんとともにペシャワールやアフガン国境の町トルハムを訪れたとき、思いがけない事件と遭遇する。ペシャワールのアメリカ大使館がイスラム武装勢力に襲撃されて、10人以上が殺されたり重傷を負った。大使館員の一部が夫婦の滞在するホテルに退避したので、ホテルも襲われたのだという。
<まのあたりにしたこのはげしい反英米感情の背景を知ったのは、ずっとあとのことだったが、家内はぶっそうな出来事にさすが不安をいだいたらしい。しかし、当時ののんびりしたペシャワールの街並みと人情は、それを帳消しにしても魅力的だった。・・・内乱のうわさにもかかわらず、ラクダを連れた遊牧民はものものしいアフガン政府軍の兵士をしりめに、ゆうゆうと行きかっていた>
しかし、この平和な光景はすぐにやぶられた。ソ連軍がアフガンに侵攻し、ペシャワールにも難民が押し寄せてきた。そうしたなかで、中村さんは家族を引き連れて英国の熱帯医学校に留学し、1983年5月、「らい根絶計画」の民間援助部隊としてペシャワールの病院に着任した。このときから中村医師の20数年におよぶペシャワールとアフガンでの活動が始まった。
「らい」の患者は世界に1150万人いる。日本にも約8千名ほどいるが、その多くは発展途上国に集中している。そしてわずか数百円程度の薬が買えないために死んでいく者が数知れなく存在するという。アフガニスタンには特に重症患者が集中しているが、そもそも「らい」の発生地はこのあたりらしい。アレキサンダー大王の遠征隊がこの地で感染し、地中海にもちかえった。そして世界に広がることになった。中村医師はまさにその発生源でこの厄介な感染症の根絶計画に与することになった。 中村さんはこう書いている。
<らいの仕事にたずさわる者は、その愛憎、醜悪さと気高さ、深さと軽薄さ、怒り、哀しみ、喜び、およそあらゆる人間的事象に、きょくたんな形で直面させられる。人間を数字やプランだけであつかえぬ何ものか、経済効率の優先でおきざりにされてならなぬ何ものかが、らい治療にたずさわってきた人びとの心のおくに根をおろしているからである。医療が人間を対象にするものであるかぎり、私自身は彼らの頑迷と偏屈に親近感をおぼえている。
ともあれ、こうしてはじめかららいの仕事にたずさわったのは、その後の現地活動を展開するのにおおいに幸いだった。外国人のふれることにできない現地事情を、底辺の人びととの濃いつき合いをとおして、下から理解できたからである>
中村さんは、外国人の医師が「協力」と称して現地の病院に赴任することに批判的である。外国人が生半可な人道主義をふりかざして、興味の赴くまま訪れると、地元の医師の失業をもたらし、周囲とのバランスをくずし、むしろ地元でひんしゅくを買うことが多いのだという。
中村医師はしたがって一般治療はそこそこに、地元の医師さえいやがる「らい」患者の治療に集中した。こうして「人のやりたがらぬことをなせ。人のいやがる所へゆけ」という彼の活動指針が生まれた。そして指針にしたがって、彼の活動はますます辺境の困難な地域へと伸びていくことになった。
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