橋本裕の日記
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2004年04月11日(日) 人間の絆

 サマーセット・モームの「人間の絆」を読んだのは、30歳の頃だ。さまざまな人物が登場し、イギリスやドイツ、フランスを舞台に、人生の絵模様がリアルに面白く描かれているのに、とても感心した。そしてここには、モーム一流の人生観や哲学が語られている。私は人生や人間を知りたいという人にいつもこの本を薦める。

 モーム(1874〜1965)がこの本を書いたのは40歳の頃だ。これはモームの自伝的な本である。フィリップは蝦足という障害をもっていたが、モームも吃音という障害をもっていた。フィリップと同様に、モームは幼いときに両親をなくしている。そしてモームも医学生をしていた。

「願望は達せられた。この作品を送り出したとき、私は、いままで自分を苦しめてきた苦痛からも、不幸な過去の記憶からも完全に解放されていた。・・・・他人を楽しませるために書いたのではない。なによりもまず私自身を、あるやりきれない固定観念から解放するために書いたのである」

 モームはこう書いているが、私は読みながら大いに楽しんだ。これは一人の不幸少年が人生の愛に目覚めていく教養小説として読むことが出来る。しかし、読者を楽しませることをいつも念頭に置いていたモームの大衆娯楽性はこの自伝的小説でも生き生きと発揮されている。

 ところで、「人間の絆」という題は、訳者の中野好夫さんの解説をよむと、モームが愛読していたスピノザの「エチカ」からとられているという。「エチカ」第四部「情念」論の見出しは「人間を奴隷にする絆について」だそうだ。スピノザはこう書いている。

「人がその情念を支配し、制御しえない無力な状態を、私は縛られた状態と呼ぶ。なんとなれば、情念の支配下にある人間は、自らの主人でなく、いわば運命に支配されてその手中にあり、したがってしばしば彼は、目前に善を見ながら、しかも悪を追わざるをえなくなる」

 主人公のフィリップの経験は多岐に渡っているが、なかでも情念の化身のような女、ミルドレッドとの出合いは運命的である。いかに、運命の手をのがれ、情念の支配を脱して、「自由な人」になるか、それはフィリップやモームばかりでなく、私たちにとっても重要な人生の課題である。この書は、ミルドレッドを登場させることで、その課題がどんなに困難のものかを語ってくれる。

「人生も無意味なら、人間の生もまた空しい。生まれようと、生まれまいと、生きようと、死のうと、なんのそれは意味もない。生も無意味、死も無意味・・・・あたかも絨毯の織匠が、ただ彼の審美感の喜びを満足させるためだけに、あの絵模様を織り出したように、人もまたしのように人生を生きればよいのだ。ひっきょう人生は、一つの絵模様に過ぎない。特にあることをしなければならないという意義もなければ、必要もない。すべては彼自身の喜びのためにすることだ。・・・・フィリップは、幸福への希求を棄てることによって、彼の最後の迷妄を振り捨てた」(中野好夫訳、新潮社)

 モームの人生観とは、一口に言えば、「幸福は求めて得られるものではない」ということだろう。そうした自己の我執を棄て、幸福への追求を棄てることで、幸福が恩寵のように人の上を訪れる。しかし、人間にとってこれは容易ではない。ほとんど不可能なことだろう。したがって、人生は現代に生きる多くの人々にとって地獄でしかない。その地獄からいかに自由になるか、主人公が最後に見出した出口は何か。私はそれをラッセルのいう「世界に対する客観的興味」ではないかと思っている。


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