橋本裕の日記
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国旗掲揚を毎日の日課にしていた三河の新設高校を2年で逃げだしたあと、私が赴任したのは名古屋市内の定時制の夜間高校だった。さっそく2年生の担任になったが、40人いる自分のクラスに入ると、授業中に頻発する過呼吸のために担架が常設してある前任校の息苦しい教室とは、雰囲気がまるで違っていた。
一番前に、私の父親とおなじ60代年輩のおじさんが詰め襟学生服姿で坐っている。その隣には50代の女性がこれは紺のブレザーで、にこにこ笑いながら座っている。そのほか、老若男女がじつにバラエティーに富んでいた。自由で明るく、和気藹々としていた。自然にこちらも笑顔がこぼれおちそうな雰囲気だった。
おじさんとおばさんは夜間中学を卒業して、夜間高校に進学したのだという。戦争のため学校も行けなかった。すこし生活にゆとりができたので、昔からの夢であった「学生生活」を送っているのだという。他の生徒達も「学校が一番楽しい」という。この学校に来て勉強が好きになったという生徒がたくさんいた。
夜間高校は昼間働いて、夜学ぶところだ。私のクラスには九州地方出身の女性とが3人ほどいた。名古屋市内の会社の寮に住んでいて、仕事が終わると会社のバスで送り迎えされてるらしい。その他に、看護婦、美容師、工員など、さまざまな職種についている生徒がいて、まずはその職業の多彩さに驚いた。
国旗と校則への絶対服従、有名大学への進学をめざして、早朝から補習に明け暮れる前任校とはまったく違う、自由でのびのびした学校だった。前任校で教員にいやけがさし、転職しようかと真剣に悩んだことが嘘のような、これはじつに楽しい学校だった。
1年後、終業式が終わると、生徒達が一人一人教卓の私の所へ来て、「先生、ありがとうございました。また、担任してね」と頭を下げて挨拶してくれた。これもはじめてのことで、さすが社会に出て働いている生徒は違うと感心した。結局、私はその同じ学年を4年生まで持ち上がり、ほとんどの生徒が脱落することもなく卒業した。おじさんは4年間無遅刻欠席。テレビ局が取材に来て、教室で私が彼に卒業証書を渡すところが放送された。
しかし、彼らが卒業した後、学校の雰囲気がしだいに変わってきた。食堂で生徒達と夕食を食べていると、坊主頭の生徒が少しずつ増えて行った。生徒会の役員をしている生徒を中心に、学校をもっと規律あるものに変えていこうという整風運動が進んでいるのだという。
彼らはまず、服装の乱れを正すというところから始めた。スカートの丈の長い生徒に注意する。その際、物差しをもっていちいちはかっている。最初のうちは、教員の多くはこれを歓迎していた。服装の乱れがなくなり、学校に規律がいきとどいて、授業もやりやすい。しかし、やがて彼らが指導に従わない生徒のスカートを鋏で切ったりはじめたのを見て、これはいきすぎだと思うようになった。男子生徒がつぎつぎに坊主頭になっていくのも、必ずしも自分の自由意志からではないのかもしれない。
この頃、生徒会室をのぞいて、びっくりした。壁に日章旗が掲げられ、「天皇陛下万歳」などという標語までかかげられている。これではまるで右翼の事務所のようではないか。生徒会の顧問をしていた社会科の先生は、もうかなり前からこのことを気に病んで、彼らの行きすぎを是正しようとしていたが、もうどうにもならないという。
日ごろから「生徒会の運営は生徒達の手で民主的に」と彼らの自主性を重んじていたことが、今回はまったく裏目にでてしまったわけだ。しかし、これを放置しおくわけにはいかず、必死に生徒会長を説得して、巻き返しに出た。その結果、生徒大会で驚くべき事がおこった。壇上で生徒会長が副会長らに襲われ、教員があわてて止めに入ったが、生徒会長は全生徒が見ている前で袋叩きにされた。
この事件のあと、強硬な指導や処分を行って、学校は沈静化した。しかし、この事件はいろいろな教訓を与えてくれた。それは「民主的」ということが、ときとしてとんでもない暴走を許すということである。そして彼らはこれをむしろ純粋な気持ちで正しいと思い込んで行っていたわけで、そのお手本は、彼らが中学校の時の教師たちだったということだ。他人の人権を「正義」のために平気で蹂躙するこうした生徒を育てているのは、中学校や高校で行われている歪んだ生徒指導ではないかと思ったものだ。
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