橋本裕の日記
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| 2004年04月06日(火) |
愛国心ではなく忠誠心 |
1999年第145回通常国会が終わったとき、新聞は「歴史に残る国会だ」と書いた。まず、この国会で過去最大と言われる108個もの法案が通った。しかし、問題は法案の数の多さではない。その内容がスゴイのだ。
まず、憲法の枠を超え、アメリカとの戦争協力体制を整えた「日米防衛ガイドライン」。犯罪捜査に通信の盗聴を認める「通信傍受法」。国民総背番号制とも言われる「住民台帳法」。そして、日の丸・君が代を公式のものとした「国旗・国家法案」。国民を管理し、思想的に支配し、そして海外派兵を可能にする総合的な法案である。
これらの法案が通ったとき、これで憲法が骨抜きになり、戦争がいつでもできるようになったと、日本の前途に不安を覚えた国民も少なくなかった。この不安が5年を経ずして、いま次々と現実のものになろうとしている。自衛隊のイラク覇権、プライバシー保護に名をかりた文春の発行禁止の仮処分、そして国歌国旗問題での職務命令違反での大量の戒告処分などなど。4/2の朝日新聞から引用しよう。
<国旗・国歌法が99年に成立したとき、当時の小渕首相は学校での扱いについて「頭からの命令とか強制とか、そういう形で行われているとは考えておりません」と国会で答弁した。当時の野中官房長官も「強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が必要」と答えていた。この記録を生徒に読ませ、「あなたの学校では首相らの約束が守られていますか」と尋ねてみたらいい。
多民族国家の米国では統合の象徴としての国旗への思いがとりわけ強い。国旗に対する「忠誠の誓い」を生徒に義務づけている公立学校も多い。そんな米国ですら「誓い」を拒む権利は連邦最高裁が1943年に認め、同様の判例が重ねられてきた。それこそ国家が守らなければいけない一線だ、というかのように。
しろじに あかく ひのまる そめて ああ うつくしい にほんの はたは
小学1年生は、みんなこの歌を習う。日の丸を美しいと思う心は、強制して育てるものではない>
ところで、なぜ政府・自民党はこれほどまでに「国旗・国歌」をムキになって強制するのだろうか。これについて、tenseiさんが昨日の日記に、それは愛国心を養うためというより、忠誠心を植え付けようとするものだと書いている。
<スポーツの世界大会なんかになると、私などは、戦争じゃないんだから、何も日本選手ばかり応援しなくても、、、と思うのだが、がんばれ!ニッポン! で大騒ぎになるではないか。更に、日本の文化遺産や風物や言葉について知れば知るほど、日本という国の特異性を愛してやまなくなるはずである。こういう意味での愛国心は、国土を徹底的に守りたい方に向かうから、反戦的な方向に向かうはずである。だから、そうムキになって国歌・国旗を強要する必要などないのである。
その必要のないことにムキになるのは、ムキになっている連中が求めているのが、そういう自然な愛国心でなく、忠誠心だからである。国歌と国旗を結びその先に見えてくる象徴的権威への忠誠心だからである。それを、愛国心という美しい言葉でヴェールに包んでいるわけである。こういう意味での愛国心は、歴史が教えてくれているように、好戦的な匂いを漂わせている>
私も「国歌・国旗問題」の本質がここにあるのだと思っている。石原都知事が求めるのは、都民の彼に対する忠誠心である。権力者が欲しがるのは、決して愛国心ではない。まさに忠誠心なのだ。自分を崇拝し、自分の前にひれふす民衆である。そしてそうした無力な民衆を眺めること、これがえもいえぬ快感なのだ。
だから、権力者は愛国心という手段をつかってこの目的をなしとげようとする。そして、権力者への服従を認めようとしない民主主義という思想が大嫌いなのだ。政府が愛国心を国民に強制するとき、私たちはいつでも、彼らが本当の愛国者なのか、ただ自分の権力欲を愛しているだけではないのかと、このことを疑ってみたほうがよい。
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