橋本裕の日記
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| 2004年04月04日(日) |
豊かな未来を開く共生社会の経済学 |
朝日新聞社から出版された「経済大論戦」という本を読みました。この数年間で出版されて話題になった50冊の経済書を、「日本経済の将来をどうみるか」「不況脱出への処方箋」「不良債権と銀行問題」「構造改革はどこへいく」などの8つのテーマに分類して、簡潔に要約した本です。著者の一人である宮島理さんがこう書いています。
<経済論戦というショーを傍観者的に眺めていられる段階はもう終わった。エコノミストや政治家に政策を「丸投げ」するのではなく、国民ひとりひとりが主体的に論争に参加するーー本書がそのためのささやかな一助になれば幸いである>
宮島理さんは、1975年生まれで、私よりも25歳も若い人です。東京理科大学理学部物理科中退後フリーライターになり、「まれにみるバカ女」(宝島社)などの著書があるといいます。経済学の専門家ではなく、大学で物理学を専攻した彼がこうした本を企画したのも、あまりにも無秩序で混乱した「経済学」の現状を見かねてのことではないかと思います。
実のところ、経済書の新刊が毎日のように出版されています。日本の一流大学を卒業してアメリカの大学で教鞭をとったことのある経済学者や、世界銀行の副頭取でノーベル経済学賞を受賞した外国の著名な学者、日銀や財務省のキャリアの経験をもつ政策通の専門家、投資会社の顧問をしている現場に詳しいエコノミストたち、そうした人々の本が売れています。経済不況で一番稼ぐのが経済学者だといわれるとおりです。
こうしたすぐれた学識とキャリアを持っている人たちの本を読んでいて気付くことがあります。それは、これらの権威あるエコノミストたちが、経済についてそれぞれ独自の説を主張して譲り合わず、お互いに痛烈に批判しあっているという恐るべき現実です。
ある著者は財政出動をすべきだといい、別の著者はすべきでないといいます。不良債権処理、構造改革、インフレターゲットなどの政策についても賛否両論があります。これでは読者はいったい何が真実で、何が正しいのか判断に迷うでしょう。一般市民として経済学を勉強し、論戦に参加したくても、専門家の意見がこうも異論百出で議論が紛糾していては途方に暮れるしかありません。
そして、こんな疑問が生じてきます。それはこうした混乱と学説の押し売りばかりの「経済学」が、はたして「学問」や「科学」の名に値するのだろうかということです。大学と大学院で10年間自然科学(理論物理学)を研究してきた私には、経済学者たちのこうした混乱したありさまは不思議で異様な光景にうつります。「経済学」はノーベル賞の対象となるくらいですから、れっきとした社会科学だと思っていましたが、これでは論証と実証に裏付けられた近代的学問だとは言えないのではないでしょうか。
イリノイ州立大学のマクロスキー教授が 「ノーベル経済学受賞者の大罪」(筑摩書房)で主張しているように、今日の経済学者たちは砂場で砂のお城をつくっている三歳の幼児に等しいのでしょうか。テレビや雑誌で自信に満ちた発言をくりかえしているエコノミストや政治家たちもまた、ただ自己満足の世界に閉じこもり、現実逃避の砂場遊びに興じているだけなのでしょうか。そうではないことを祈りたいのですが、経済財政大臣兼金融大臣の竹中平蔵さんのお坊ちゃん顔が浮かんだりして、いよいよ不安が募ってきます。
そこで、「経済とは何か」ということを、ラジカルに問い直してみたいと思いました。そのためにいろいろな経済書を読み直して書いたのが「経済学入門」です。他人のためにではなく、私自身が「経済のしくみ」について納得し、政府の政策や、私たちの身のまわりで起こっている経済現象について、より本質的な理解を得たいと考えました。
そのため、むつかしい専門用語は避けて、自分自身の頭で考えたことを、自分自身の言葉でやさしく書いてみました。結果的に中学生にでも分かる経済学入門が書けたのではないかと思っています。
経済学はそもそも現在この世界を支配している市場経済のしくみを明らかにする学問です。そして、このしくみをどう変えれば将来どんな社会が実現するかを予測し、その効率的な実践法を社会に提言する役目も担っています。
たとえば財務省は昨年(2003年)一年間で、21兆円ものドルを買い、円を売っています。これまでの最大が1999年の7兆円ですから、実にその3倍です。しかも今年に入って、この3ケ月間で、財務省はすでに15兆円ものドル買いをしているのです。このままの勢いだと年間で60兆円に達するでしょう。
財務省はこの異常なドル買いを何のためにしているのでしょうか。そしてこの巨額の資金をどこから得たのでしょうか。資金は誰の手に渡り、どのように使われているのか。それはほんとうに日本国民にとって必要な経済政策で、そのコストに見合うだけの効果が期待されるのか、またその論理的根拠は何か。こうした疑問が次々とわいてきます。
去年12月に政府はドル買い介入に必要な短期国債の発行枠を140兆円に拡大しました。国家予算が81兆円なのに、それを上回る資金を使ってアメリカ国債を買うつもりです。米国債とはいわばアメリカの借金証文です。日銀の金庫には何千億ドルもの米国債が堆く積まれています。
ところでこの米国債は何かの役に立つのでしょうか。日本が多額の赤字国債を抱えながら購入しなければならないほどのものなのでしょうか。そして、なぜ日本政府はこれを金に変えたり、また必要なとき売却したりしないのでしょうか。
1997年6月に当時の橋本首相がアメリカのコロンビア大学で講演し、米国債売却について触れたことがありました。その趣旨は、「米国債を売って金に切り替えると言う誘惑に負けないよう、米国も為替の安定に協力してほしい」ということでしたが、日本の首相のこの発言で、アメリカの株はたちまち大暴落しました。そして日本政府はあわてて、「将来にわたって米国債の売却はありえない」と発言を撤回したのです。
こうした事実を分析すれば、「米国債」を中心にした資金のアメリカへの環流という国際経済のカラクリが見えてきます。しかし、こうした問題についても、経済学者や政治家、官僚の発言はそのつど変化し、そのうえ難解な表現に満ちていて、雲をつかむようでよくわかりません。しかし、私たち一般市民は、選挙民であり、かつ納税者としての立場から、これら政策が行われる理由を掌握しておく必要があります。そのとき私の「経済学入門」が一つの手がかりになれば幸いです。
ところで、経済のメカニズムを理解し、さらにこれをどう変えて行ったらよいかと問うとき、その前に是非考えておかねばならないことがあります。それは、私たちがどのような社会を望み、目差そうとしているかという、将来の社会についてのあるべきビジョンを持っているかどうかということです。
なぜエコノミストたちの議論が紛糾し、お互いに矛盾対立するばかりでかみ合わないのか、実はこの問題の秘密がここに隠されています。それは理想とする社会のイメージがそれぞれの学者の心の中でまちまちだからです。経済政策はただ景気をよくしたり、株高を実現するために実行されるわけではありません。その先に、どんな社会を目差しているのかという本質論がなければならないのです。ところが案外こうした大切な議論が経済学者のあいだでスキップされているのです。
多くのエコノミストが当然の如く考えているのは、「競争原理」に基づいて「強い日本を創る」ということです。彼らがどうしてこうした発想をするのかと言えば、彼らが高学歴で、高収入を誇る経済的強者だからです。しかも同じことを主張していては芸がないので、それぞれ自らをこまかく差異化して、自らの「学説という商品」を高く売りつけようとしているのです。そしてここから、経済政策の多様性が生まれてくるし、学説の混乱も生まれてくることになります。
平凡な一般庶民である私は、大方の経済学者とは違って、「弱者にやさしい社会」「貧富の差の少ない社会」「戦争や紛争がない豊かで平和な国際社会」を望みます。貧富の格差を生みだし社会を不安定にする「競争社会」ではなく、人と自然にやさしい「共生社会」の実現と維持のために経済学がおおいに研究され、社会のために活用されることを願っているのです。
私はまた日本は古来より「和をもって貴しとなす」という共生原理で生きてきた社会だと考えています。人々を幸福にするのは、こうした国の伝統的な文化を守り育てることのできる「共生社会の経済学」だと思っています。そのためにはアメリカに追随するだけではなく、EUやアジアとも連帯すべきでしょう。とくに日本は昔から中国文明の恩恵を受けています。先の不幸な戦争の反省をしっかりして、中国を初めとする近隣諸国と良好な信頼関係を築いていく必要があります。
私はこうした「競争よりも共生」、そして憲法が最高の理念とする「国際関係重視」の視点から、「経済学入門」に続いて、「共生論入門」を書きました。これらの文章は「何でも研究室」に置いてあるので、興味のある方に読んでいただければ幸いです。
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