橋本裕の日記
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2004年03月31日(水) 民主主義と言論

 イギリス国王でもっとも長い在位したのは、ヴィクトリア女王(1819〜1901)で、1837年から64年間も在位した。彼女の治世「ヴィクトリア朝時代」において、大英帝国はその黄金時代を迎えた。

 この時代の政界を代表したのが保守党のディズレーリ(1804〜1881)だった。彼はユダヤ人だったがキリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら政治小説を著した。1837年に下院議員に当選し、ダービー内閣で3度蔵相を務め、その後首相になって、スエズ運河の買収やインド帝国の成立、ベルリン会議でロシアの南下策を阻止するなど、積極的に植民地主義政策を推し進め、大英帝国の繁栄を築いた。

 ディズレーリが属した保守党は、もともと大土地所有者である貴族の利益を代弁する保護貿易主義の立場だった。したがって、外国からの穀物を自由に輸入することを禁じた「穀物法」を守る立場にあった。

 ところがこのころアイルランドを大飢饉が襲った。このときの飢饉によって、何百万ものアイルランド人がアメリカに移住したといわれるが、人々をこれ以上移住させずに飢餓から守るためには、穀物を外国から輸入するしかない。そこで、保守党のピール首相は「穀物法」の廃止を打ち出した。

 これに同じ保守党のディズレーリが反対した。もっとも彼は「穀物法」の廃止に反対なのではなく、「穀物法を守る」という公約を掲げて選挙に勝利した保守党が、その選挙公約を破ることは間違っていると言って反対した。これでは穀物法に反対した自由党の公約を盗むことになる。したがって、保守党は野党である自由党に政権を譲り、政権党となった自由党の手で「穀物法」を廃止するのが正しい政治だと主張した。

 ピール首相は「わが党は議会で圧倒的多数をしめ、しかも私は女王の信任を得て首相になった。したがって、国家に必要な政策は、たとえ選挙公約に反しても断固として行う」と反論した。これにたいして、ディズレーリはこう述べた。

「もしも閣下が農村紳士の支持を得られなかったのならば、すなわち総選挙で勝たなかったのならば、君主は閣下に信任を授けられたでしょうか」

 ピール首相とディズレーリは一歩も譲らず大論戦を展開したが、結局ディズレーリの勝利に終わった。この論戦の中、保守党の代議士が次々と党を去り、ピール首相の保守党は少数派に転落してしまい、結局総辞職するしかなくなったからだ。

 これ以来、イギリス議会では「選挙公約は必ず守らなければならない。守ることができないときは、野党に政権を譲らなければならない」というしきたり(習慣法)ができた。さらに「国策は議会における言論によって決めるべきである」ということが明らかになった。ディズレーリがイギリス立憲政治の完成者だといわれるのはこのためだ。

 ひるがえって、日本の国会を見るとどうだろう。選挙公約は守られているだろうか。国策が議会における自由な言論によって決められているだろうか。それどころか、細川内閣や村山内閣のように、少数党の党首を首相に選んでだれもこれをおかしいと思わない国民不在、選挙民不在の政治がまかりとおっている。

 なおこのこの時代には、ディズレーリに劣らぬ大政治家がもう一人いる。自由党党首として4回も首相をつとめたグラッドストン(1809〜1898)である。彼は保守党の帝国主義植民政策には反対だった。植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対し、内政問題に熱心にとりくんだ。

 教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設したり、労働組合法を制定して労働組合運動を合法化した。1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって成年男子の大部分(700万人中500万人)が有権者となった。

 さらに、グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上のためにアイルランド土地法の制定に取り組んだ。そして1893年にアイルランドに自治を認める法案を議会に提出したが、この法案は否決され、グラッドストンは翌年政界を引退した。こうしてビクトリア時代は幕を閉じたが、この時代にイギリスの立憲政治は二大政党制として確立した。日本にディズレーリやグラッドストンが生まれるのはいつのことだろうか。

(参考文献)「悪の民主主義」小室直樹、青春出版社
(参考サイト)http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/index.html


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