橋本裕の日記
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2004年03月05日(金) 初秋

32.少女の死

 葉子も約束の時間より早めについて、テレビ塔に登ってみる気になったようだった。修一と同様に名古屋で暮らしていて、テレビ塔に登るのは初めてだという。動機も「何となく、遠くを見たかった」ということらしい。

 葉子と二人で会うのは、先週の日曜日に喫茶店であって以来だった。「さと」へ葉子を連れて行くつもりが、緊急の電話が病院から入って、修一は一人で「さと」へ行った。その夜は葉子には電話も通じなかった。

 翌日、修一は会社の帰りに病院に寄ってみた。そして、島田と同じ病室に入院していた少女が死んだことを知らされた。墜落死だと聞かされて驚いた。半年以上意識のなかった植物人間状態の少女が、どうして墜落死などしたのだろうか。

「意識がもどったようなの。それで、ベッドから起きあがり、病室を抜けて、屋上から墜落したの。後頭部を打って、ほとんど即死だったのよ」
「墜落死というけど、事故じゃないね」
「そうね、自殺でしょうね」

 修一は霊安室で少女に会った。少女の体はすみずみまで解剖されたらしいが、顔はきれいだった。うっすらと化粧していて、口紅が赤かった。唇がわずかに開かれ、笑っているようだった。修一は少女のやすらかな表情にほっとした。

 少女はもうだいぶん前から、意識を回復していたのではないだろうか。そして病室で交わされる会話を聞いているうちに、人生への絶望を深め、自殺する機会をうかがっていたのではないだろうか。そんな疑いが修一の頭にうかんだ。しかし、その疑いを葉子に質す気にはなれなかった。そんなことをすれば、葉子は責任を感じて余計に落ち込むだろう。

 少女の死は祖父の他に、九州の病院にいるという母親に報されたが、いずれも病気のために身動きができないということだった。そこで修一がたのまれて喪主代表になり、病院関係者だけのひっそりした通夜と葬式をした。

 あわただしい一週間が終わり、修一はようやく息をついだという感じだった。テレビ塔に登って、伊吹山や御岳を見ていると、「遠くを眺めたかった」という葉子の気持がよくわかった。修一は葉子と並んで、しばらく遠くを眺めていた。


橋本裕 |MAILHomePage

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