橋本裕の日記
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2004年03月04日(木) 文明の中の野蛮

 歴史を考える視点として、文明的な視点と文化的な視点がある。文明的視点とは、たとえば世界の歴史の流れを、トッドやフクヤマのように、「野蛮から文明へ」という文脈で捕らえる視点だ。たとえば佐伯啓思さんの「新帝国アメリカを解剖する」(ちくま新書2003年)にはこう書かれている。

<フランシス・フクヤマが89年に「歴史の終わり」と題する論文を書いたとき、彼は、ヘーゲルの歴史観をいささか通俗化し、歴史とは、西洋近代社会に起源をもつ個人的自由や権利、民主主義、市場競争の理念が、次々と現れる「敵対者」との戦いに勝利しつつ現実化してゆくプロセスだと見なした>

<西洋近代という「文明」の理念は、まずは専制君主との戦いに勝利し、続いて全体主義やファシズムとの戦いに勝利し、次には、社会主義との戦いに勝利するだろう。実際、フクヤマの論文が発表されて1年もたたないうちにベルリンの壁は崩壊し、それから1年もたてばソ連も急速に崩壊に向かった。かくしてフクヤマの予言通り、社会主義は、自由で民主的な市場経済に破れたのである>

<こうして個人の自由や民主主義、市場主義から構成される「文明」は、専制君主、ファシズム、そして社会主義という「野蛮」との戦いに勝利した。それゆえ、抑圧からの個人の解放、民主的な政治体制の確立、自由な市場競争、法による支配などを原理とする「文明」へと向かう歴史はもはや終焉した、と彼はいう。なぜなら、もはや、この「文明」に挑戦できるイデオロギーは存在しないからだ>

 90年代はグローバリズムや情報通信手段の世界的普及による「文明」の世界化であった。ところが、ここにフクヤマが想定もしていなかった新たな「野蛮」が登場した。いうまでもなく「テロ」という「野蛮」がそれだ。かくして、フクヤマの「歴史の終焉」テーゼを補完し、完成させるためには、ここに「テロとの戦い」という一章を新たに付け加えねばならないことになる。

<ヘーゲルがフランス革命の中に専制君主に対する自由と平等の勝利を見、ロシアの哲学者コジェーブがフランスに亡命して、ファシズムに対する自由・民主主義に勝利を謳いい、フクヤマが冷戦の終結を前に、社会主義に対する自由・民主主義と「市場経済の勝利を宣したとすれば、ブッシュがテロに対する自由・民主主義の戦いを宣言したということになる>

歴史を「文明」の視点から眺めると、その行き着く先は、歴史を、「文明の進歩と普遍化へ向けた戦い」であり、世界をその「戦場」であるということになる。しかし、ここにもうひとつ、歴史を「文化」の視点から眺める方法がある。その代表は「文明の衝突」を書いたハンチントンだろう。ふたたび、佐伯さんの文章を引く。

<冷戦以降の世界を、西欧の自由や民主主義、市場経済の拡張・普遍化の流れとして解釈するフクヤマに対抗して、政治学者のハンチントンは冷戦以降の世界を、いくつかの文明圏の対立や確執の時代とみる>

<冷戦が終わり、イデオロギー対立が消滅し、理念やイデオロギーが人々の心を捉えなくなった時、人々は新たなアイデンティティを、彼の所属する集団の文化に求めるであろう。言語や宗教、そして集団の歴史的経験といったものこそが、人々のアイデンティティの基軸になる、というのである>

 現代を「文明と野蛮の戦い」の時代とみるか、「文明(文化)と文明(文化)の衝突」の時代と見るか、これについて、佐伯さんはさらにこう書いている。

<実際、ハンチントンが述べたように、冷戦以降の世界の紛争や軋轢は、イデオロギー的な対立や経済的利害だけでは説明がつかない。ここでわれわれは、どうしても宗教や民族、歴史的記憶といった文化的な表徴をめぐるアイデンティティというファクターを持ち込まざるをえないのである>

<その意味では、今日の世界は、「富をめぐるゲーム」と「イデオロギーをめぐるゲーム」と「アイデンティティをめぐるゲーム」をすでに持ち込んでいるといえよう。これは、バクス独立やアイルランド紛争、ケベックの分離運動、東チモール問題、アチェの紛争、チベットの紛争、それにチェチェンを代表とする旧ソ連邦内部の諸民族、国家対立などをみても明らかだろう>

<紛争や戦争は常に、国益をめぐる政治的決断としてなされることはまちがいない。この場合、国益を定義し、政治的判断を動かすものは通常、経済的利害であり、国際情勢についての判断であると見なされる。しかし、ハンチントンのメッセージは、この政治的判断に対して、「文化的アイデンティティ」や「価値の共通性」という「文明」の要素が、決定的のものとして組み込まれてくるということであった。そしてその趨勢を、あえて無視する理由はなにもない>

<ある文明が世界性をもつこと、あるいは普遍性を唱えること、そこから「衝突」の可能性が引き出される。ある「文明」が他の「文明」に対して、彼らのアイデンティティを脅かし、彼らが自らの尊厳を傷つけられたと感じたとき、文明は衝突する>

<だが、それが現実の紛争や戦争になるときは、あくまで政治的、軍事的、経済的国益をめぐる利害対立として表現されるのが通常だろう。戦争においては、他国との同盟や国益の保守が緊急の課題になるからだ>

<だから具体的な紛争や戦争において、「文明の衝突」はあくまで事態の背後に待機しており、潜在的なレベルで紛争を動機付けている。その意味では、「文明の衝突」とは、正確にいえば「文明の潜在的衝突」といわねばならない>

 文明は衝突を繰り返して進歩する。それではなぜ衝突をするのだろうか。それはその根底に文明の性格の違い(文化)があるからだ。文明の視点に立てば、ここから導かれる結論はひとつでしかない。世界中のひとびとが一つの文明と、一つの文化を共有すればよいわけだ。

 現在、アメリカが文明の名の下に行おうとしているグローバリズムは基本的にこの帝国主義的戦略に基づいている。そして、日本も又、アメリカの世界戦略に荷担している。こうした戦略が世界をどこに導くかあきらかである。それは新たな野蛮、文明的な野蛮の世界であり、あらゆる人間的なものが崩壊した「虚無」の世界である。そしてそれはすでに私たちの目の前に、「テロリズム」として姿をあらわしている。

<「文明」の内部に「野蛮」は棲息している。そして宗教的テロリズムは「文明」の中の野蛮が外部化され、「文明」に襲いかかるということである。ローマにおいても「野蛮」は「帝国」という「文明」の内部から発生していた>

 佐伯さんはアメリカも又テロリズム同様に、むしろ双生児のように、その内部に「虚無」をかかえているという。しかし、この虚無は実のところ対等ではない。アメリカの「虚無」がテロリストの「虚無」を生み出したのだから。

 虚無はどこから生まれてくるか。それは「他人を信じることができない」という情況から生まれてくる。私たちは悲しいことに、そのような人間不信の殺伐とした社会を「文明」の名の下に作り出してしまった。もしこれを放置したら、やがて世界は完全に崩壊するだろう。

 じつのところ、文化の多様性が戦争や紛争の根本原因ではない。それは日本の先の愚かな戦争を考えてもあきらかだ。大東亜共栄圏とか、神の国だとか、いろいろと言われ、粉飾されてはいるが、そうした観念物にまどわされずに冷静に分析してみればよい。宗教や文化の違いが対立を生んでいるのは事実だが、より本質的なのは経済的な問題だということがわかるだろう。

 多様な文化をもつ人々が、それぞれの価値観を大切にしながら、この地上で仲良く共生していくことが大切だ。そのためにいま世界に必要なのは、貧富の差をこれいじょう拡大しない合理的な経済体制であり、失業と飢餓の一掃である。競争原理ではなく、共生原理に立脚し、一部の富者ではなく、すべての人々を幸せにする、あたらしい豊かさをめざす経済政策や政治である。これが実現すれば、テロや内戦も自ずとなくなる。

(注)佐伯さんは京都大学大学院人間環境学部の教授で、
サントリー学芸賞を受賞した「隠された思考」(筑摩書房)
読売論壇賞を受賞した「現代日本のリベラリズム」(講談社)
「アメリカニズムの終焉」(TBSブリタニカ)
「欲望と資本主義」(講談社現代新書)
「市民とは何か」(PHP新書)
「アダムスミスの誤算」(PHP新書)
「ケインズの予言」(PHP新書)
「現代民主主義の病理」(PHP新書)
などの著書がある。


橋本裕 |MAILHomePage

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