橋本裕の日記
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2004年02月27日(金) 初秋

30.虫の声

「さと」を出て、家の前でタクシーを降りたときは、もう11時に近かった。あたりは静まり返っていて、遠ざかかっていく車の音だけがしばらくひびいていた。空には月が出ていたが、玄関の明かりも、家の中の明かりも消えていた。

 玄関の鍵を植え込みの中にさがしに行った。空の植木鉢の下に鍵がかくしてある。鍵を見つけたあと、しばらく庭のベンチに腰を下ろして、庭を眺めた。木立に月明かりがさしていて、足もとの草むらで虫の声がしていた。

 島田が演技をしているのではないかという、さと子の言葉が甦った。さと子も確信があるわけではない。ただ、ふと、そんなことをあるとき思った。それは本人を前にして感じたことではなくて、その帰りがけに、バスに乗っていて、そんなことを思ったのだという。それから島田を見るたびに、「演技ではないか」と疑うようになり、無心で世話ができなくなった。

「島田はずるいのよ。私が見つめると、寝たふりをするの」
「タヌキ寝入りだね」
「いつか、鼻をつまんでやったのよ」
「それは痛快だ」
「目を開けたわ。でも、すぐにまた目を閉じて、口をきかないの」 

 芸達者な島田は、医者や看護婦を欺くことくらいできるだろう。しかし、肌を合わせた女は騙せなかったのだろうか。修一は島田が演技をしていると考えたことがなかったが、言われてみて思い当たることがないでもない。さと子の言葉によって生じた波紋が、修一の心にさざ波のように広がっていた。

 風がふいて、木立が鳴った。修一は鍵を片手に立ち上がった。玄関を入ると、家の中は静かだった。妻も息子も帰ってきていないようだ。レストランで食事をしたあと、映画でも見に行ったのだろうか。修一は遅くまで飲んでいた弁解をしなくてよくなって、少しほっとした。

 上着を脱ぐと、ソファから葉子に電話をした。「さと」からもアパートに電話を入れていたが、そのときと同じ録音された葉子の声が再生されるだけだった。留守電にメッセージを残そうか迷ったが、そのまま受話器を置いた。

 葉子が病院から戻っていないのは、少女の容態が思わしくないのだろうか。修一は病室で耳垢をとってやったときの、可憐な蕾のような唇を思い出した。身よりのない少女のことを思うと、少ししんみりとして、熱いシャワーを浴びたくなった。


橋本裕 |MAILHomePage

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