橋本裕の日記
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政治的立場には、「保守」と「リベラル」がある。そこで、この二つの政治思想や手法の違いを調べてみよう。また、どういう人々が、どいう動機で、保守になったり、リベラルになったりするのか、この点についても考えてみよう。
「保守」は「民衆は自立心がなく、愚かで利己的で、争いを好む」というところから出発する。そしてここから、「社会に平和と秩序をもたらすためには、強力な法と、その法に基づく権力の支配が欠かせない」という結論を導き出す。ここから出てくるのは法や秩序の強化であり、自国の文化や伝統を尊重する政策である。
これに対して、「リベラル」は「民衆はほんらい良識をそなえている。現状が悪いのは、社会のシステムが間違っているからだ」と考える。したがって、「社会に平和と秩序をもたらすには、社会のシステムを民主的で合理的なものに変えていかなければならない」という未来志向の社会変革的な立場から政策をつくる。
「保守」の代表的な思想家は「リバイアサン」を書いたホッブス(1588〜1679)だろう。彼は人間の自然状態は「人間が人間にたいして狼である」状態であり、「万人の万人の対する闘争」が支配する野蛮状態であるとした。これを克服するためには、人間はその自然状態で持っている自由をお互いに差し出して、権力と法の支配下におかれなければならない。
同様の考え方を中国では荀子(BC340〜BC245)がとなえている。「人間は生まれながらに<欲>を持っている。これを野放しにしておくと<争>がおこり、世の中が乱れる。これを避けるために<礼>を制定して、<欲>を抑えねばならないと考えた。荀子にとって<礼>とは、人々の<欲>を制限し、社会の秩序を維持するための手段だった。荀子のこの思想は韓非子に受け継がれ、法家思想として完成する。
これに対して孟子(BC390〜BC305)は「人間は本来善に向かう傾向がある」と考えた。たしかに人間は生きるために<欲>を持っているが、本来持っている「良能」(善性)を、「良知」によって磨いていけば、「仁、義、礼、智、信」の「五徳」をそなえた人間になることができる。こうした思想に基づいて平和的・教育的に社会に秩序をもたらす実践が王道であり、暴力と強制によって支配するのは覇道であるとしてこれを批判した。孟子のこの考え方は、「リベラル」に通じている。
ジョン・ロック(1632〜1704)は「リベラル」を代表する思想家だが、彼はホッブスのように、「自然状態を闘争状態」だとは考えなかった。むしろ「自然状態は平和である」と考えた。ロックは「統治二論」(1690年)に次のように書いている。そのあとに、アメリカの独立宣言と日本国憲法の一節も引いておこう。
<人間は生まれながらにして完全な自由をもつ。人間はすべて平等であり、他の何物からも制約をうけることはない>(統治二論、1690年)
<すべての人間は平等に造られ、神によって一定の奪いがたい天賦の諸権利を与えられ、その中には生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信ずる>(アメリカ独立宣言、1776年)
<すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない>(日本国憲法14条、1946年)
「保守」的な傾向を持つのは、現在の体制を肯定している人々であり、「リベラル」は現在の体制に批判的な人が多い。富裕階級や低所得層の人々が「保守」で、中産階級の人々はどちらかといえば「リベラル」が多いようだ。低所得のブルーカラーに「保守」が多いのは、彼らが現実の悲惨をシステムの問題だと受け止めることをしないからだ。
したがってアメリカや日本のように社会の二極化が進む地域では、保守主義が台頭しつつあり、今後ますます社会が右傾化することが予想される。こうしたなかで私たちに必要なのは、社会の悪を「人間の悪」としてではなく、「社会システムの悪」としてとらえる社会認識力の養成だ。そのためには社会思想の原点であるジョン・ロックを理解するのがいちばんよい。彼の思想が出てきた背景を、中学や高校の授業でもう少しわかりやすく教えほしい。
たとえば、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。性悪説に立てば、凶悪な犯罪を防ぐには、法律や罰則を強化するしかないということになる。しかし、人が犯罪を犯すには、それなりの内的・外的原因や矛盾が考えられる。犯罪の原因となっている社会的背景を考え、その解決について考えることは立派な政治教育である。
ちなみに2002年に日本で1396件の殺人事件が発生している。そのうち9割が顔見知りによる犯行だという。とくに親族による犯行が多く、約5割のぼる。私たちが殺されるとしたら、家族による可能性が半分もあるということだ。この中で、両親による児童虐待殺人は20件あり、父親の手で殺されたのが4人、母親の手で殺された子供が16人いる。母親の手で殺される子供の方が4倍も多い。こうした事実からも日本社会の母子依存的な背景があぶり出されてくる。
アメリカでの殺人事件は毎年1万5千件に登っている。人口比でみても日本の5倍以上だ。これはアメリカ人は日本人より5倍も凶悪だということではない。アメリカの場合、銃器による殺人がほとんどで、この数字の背景にはアメリカが「銃依存社会」であるという現実が控えている。そしてアメリカは世界中に武器を売り、世界をアメリカ製武器の格納庫をもつ「武器依存社会」に変えようとしている。
ところで、最近読んだケーガンの「ネオコンの論理」には、ホッブスについて何回も引用されているのに、ロックについての言及は皆無だった。政治学の教科書にはアメリカはロックの思想から生まれた国だと書かれているが、建国の父たちが「世界はホップス的な闘争社会である」というケーガンの本を読んだら、さぞかし驚き呆れ、悲しみと怒りを覚えるのではないだろうか。
(参考文献) 「数字のどこをみているんだ!」 監修・和田秀樹、宝島社2004年
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