橋本裕の日記
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2004年02月23日(月) 初秋

29.女の手

 さと子は言葉をさがしているようだった。あるいは、心の中に何かつかえがあって、言葉を吐き出すのがむつかしのだろうか。しばらくして、さと子の唇が動いた。

「島田の記憶喪失はなおるのでしょうか」
「脳の写真では異常がないようだ。いずれ回復する希望はあるのだろうね。ある日突然、ということがあるかもしれない」

 修一は記憶回復のために、看護婦の葉子が島田を外に連れだそうとしていることを話した。島田をいろいろな人に会わせることも必要だろう。さしあたりできることは、島田をこの店に連れてきて、高橋文子という若い女性に会わせてみることだろうか。

 さと子は耳を傾けていたが、この計画について、とくに関心がある様子はうかがえなかった。何か他のことを考えていそうな気配があった。彼女の唇が動くまでに、またしばらく間があった。

「身体の障害も治るのでしょうか」
「医者は身体障害も精神的な要因が大きいのではないかと言っている。記憶が快復したら、身体障害もかなり改善されるかも知れない」

 記憶が快復し、身体障害が改善しても、島田はまたむかしの快活でバイタリティーのある人生をとりもどすとはかぎらない。しかし、世故に長けた島田のことだから、なんとか自分の人生を切り開いていくだろう。

 修一はカウンターに置かれたさと子の手を眺めた。たぶん、その手を島田は何度も愛撫したに違いない。島田の手がさと子にふれなくなって、もう半年近くになる。さと子は淋しくないのだろうか。修一は何気なく手を伸ばして、さと子の手に触れた。

「沢田さん、意外なことするのね」
「いやかい」
「どうぞ、私のような年増の手でよかったら」

 さと子は四十代にはなっていたが、まだ年増というほどではない。妻の芳子よりかなり若いし、もち肌で美しかった。私はしばらくのあいださと子の手を愛撫して、自分のなかに呼び覚まされてくるさまざまな感覚をたのしんだ。 

 修一はこれまで妻以外の女にふれたりしたことがなかった。妻にも手を愛撫したりしたことはない。さと子の手を愛撫することで、自分がまた少し違ったものに変容していくのがわかった。しかし、さと子はその間も、島田のことを考えていたようだ。

「私、彼のこと疑っているの」
「羽振りも良かったし、もてたからね」
「そういうことではないの。記憶喪失のことよ」

 さと子は島田の記憶喪失は嘘ではないかという。事故のあとしばらくはそうだったに違いないが、ある時を境に記憶は回復しているのではないか。しかし島田はそのあとも、何かの理由で記憶喪失を装い続けている。修一は驚いた。愛撫していた手の動きがとまった。


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