橋本裕の日記
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2004年02月21日(土) 利己的社会の経済学(6)

 青年の家は宮殿の近くにあった。それほど大きくはなかったが、品のよい家だった。すでに皇太子が来ていた。私は青年の母親に招待された礼を言った。彼女の微笑みは五年前に死んだ妻を私に思い出させた。

 その日の夕食は最高にすばらしかった。私は長い間、家庭料理を味わうことがなかった。私の口数が少なくなったのを、青年が心配して「どうかなさいましたか」と訊いてきた。私が感傷的に死んだ妻のことを語ったので、晩餐の席が少し湿っぽくなった。

「政治や経済の話題は避けようと思っていましたが、質問させて下さい」
 青年が訊いてきた。
「どうぞ、訊いてください」
 私はナプキンで口を拭きながら、笑顔を作った。

「福祉プロジェクトについて、父も生前によく<教育こそが最大の投資だ>と口にしていました。側近の役人たちを家に招いて、教育の大切さを説いていたものです。しかし、役人達は教育や福祉事業にたいする経済効果について疑問を持っていました。とくに教育については、それがどれほどの経済効果を生むか、首をかしげるのです。この点について、先生はどうお考えでしょうか」

「私も亡くなった父君どうよう、教育こそが最大の投資だと思っています。まず、学校を作らねばなりませんが、私ならば後世に残るような素晴らしい建築を作ります。そのためには建築家たちに腕を競わせねばなりません。学校には庭が必要ですし、そこには沢山の花を植えたいですね。それから、ブロンズ像などの芸術品を置いて、文化的な香りを醸したいものです。こうして、様々な分野の人々が職にありつき、その能力が開発されます」

「そうですね。それに教員も養成しなければなりません。そのために大学もたくさん作らなければならない。これによって、多くの学者達が職を得るし、事務員としてたくさんの人々が採用されます。ハード面ばかりではなく、ソフト面でもいろいろな需要が見込めますね。役人達はこの点を見逃していました。教育は見返りに比べてお金がかかると言うことで、父の政策に反対したのです」

「むしろ教育はとても生産的です。それはどんな工業製品をつくることより生産的です。教育によって国民の知的水準が上がれば、新聞や雑誌も大幅に発行部数を伸ばすでしょうし、書籍も需要がたかまるでしょう。これによって知的産業が多大な利益を得ます」

「国民の知的水準が上がれば、たくさんの独創的な発明や発見も産まれるでしょうね。先端技術が開発され、生産技術がたかまります。たくさんの工場が作られ、そこでもたくさんの人々が職を得ることが出来ます。たしかに死んだ父も、教育がいかに裾野の大きな、すばらしい投資であるか語ってくれたことがありました」

 青年は死んだ父親のことを思い出したらしく、少ししんみりした口調で言った。青年の母親が立ち上がり、紅茶を運んできた。たぶん私が座っている席に、彼女の夫が座り、妻の作る食事に舌づつみを打っていたのだろう。彼女は私の前に紅茶を置くと、また向かい側の席に戻り微笑んだ。右手に坐っていた皇太子が話し始めた。

「前首相の叔父さんから、私も教育の大切さを聞いていました。しかし、頭の固い大臣や役人は、その重要性を理解しませんでした。この点では父王も私も同じでした。国民の知的水準が上がれば、必然的に人々は政治の民主化を要求するでしょう。それは王権を脅かすかも知れません。私たちはこの国を豊かにしたいという願いを持ちながら、一方で自分や自分の家族の安泰を考えていたのです。そして父に仕える多くの役人達も同じでした。今も王宮を中心にして、強固な利権が出来上がっています」

「なるほど。その利権の壁をどう崩すかが問題ですね。この国では経済の問題は政治の問題なのですね。経済を変えるためには政治を変えなければならないわけだ。しかし、政治を変えるためにも、経済を変えねばなりません。経済の変革が次第に政治の変革を生み出すようにしたいですね。そのためにも教育や福祉をてこにして、経済の建て直しをはかることがベストだと思います」

 私は二人の青年と、美しい未亡人を前にして、いつになく熱していた。こんなにも熱意をこめて語ったことは、私の50数年の半生を振り返ってみてもないことだった。やがて10時を過ぎて、皇太子がいそいそと席を立った。私も一緒に王宮に戻ろうとすると、皇太子が押しとどめた。

「先生はここに泊まってください。王宮で今夜異変が起こります。私の得た情報では、先生を亡き者にしようという計画が動いています。そればかりではなく、大臣と軍人の一部はクーデターを起こして、王宮を軍事政権下におこうとしています。しかしすでに万全の手は打ってあります。ただ、この国の次期首相である先生にもしものことがあってはなりません」

 私は皇太子の言葉に驚いた。クーデター計画もそうだが、私が次期首相という何気ない一言に耳を疑ったのだ。しかし、皇太子の言葉は現実のものになった。翌日の新聞はクーデター計画が未遂に終わり、政府や軍部の要人たちの多くが夜中のうちに逮捕されたことを伝えていた。そして、夕刊では、王様が皇太子と前首相の息子の大臣就任と、私の首相就任を命じたことを報じていた。あくる日、皇太子が王宮から私を迎えにきた。


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