橋本裕の日記
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26.鰺のひらき
さと子の店は今池にあった。カウンターだけの狭い店だが、表通りから入った場末なので、そう客がたてこむということはない。店にくるのはたいてい常連客だ。今日も二人ほど、常連らしい客が座ってビールを飲んでいた。
カウンターの中にさと子ともう一人、中年の女が和服姿で働いていた。二人とも修一を見てほほえんだが、声を掛けてくるわけではない。修一はカウンターに坐ると、ビールとおでんを注文した。
さと子がグラスにビールを注ぎながら、 「沼津産の鰺のひらきがありますよ」 「そうか、それも貰うよ」 鰺のひらきが修一の好物だった。
さと子が鰺を焼いているあいだ、もう一人の女が修一の前にきた。島田と半年前にきたとき、彼女は店を休んでいた。何でも子宮に腫瘍が見つかって、それを手術するために入院したとのことだった。 「もう、いいの」 「おかげさまで、さっぱりしました」 子宮をとってさっぱりしたということだろうが、返事のしようがないので、修一はがんもどきのおでんを口に含んだ。
さと子から彼女の身の上を聞いている。失業中の夫が競馬や競艇に通いはじめ、サラ金に手を出して取り立て屋に追われるようになり、彼女は中学生の娘と二人で家を出て、世間から逃れるようにしてアパートで暮らしているのだという。さっぱりしたというのは、性悪な夫と別れたということかもしれない。
「おねえさん、もう一本くれないか」 二人連れの客から声がかかり、彼女はそちらに行った。修一は革靴を脱いで、椅子の上にあぐらをかくと、さと子にささやいた。 「相談があるんだって」 「ええ、今夜はゆっくりしていってくださいね」 さと子が鰺の焼いたのを皿に入れて、修一の前に置いた。あぶらの香ばしい匂いが食欲を誘い、修一は何だか急に幸せな気分になった。
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