橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2004年02月08日(日) |
創造的虚無主義のすすめ |
野田俊作さんが日記「野田俊作の補正項」で、人生に対する考えとして神秘主義と虚無主義があるが、実はそのどちらも嘘であると述べている。そしてそれらを嘘と分かった上で受け入れる「利口」な生き方について説いている。文章を引いてみよう。
<世界は言語よりも大きいと思う。言語はたかだか人間の脳が作り出したものだし、世界は人間の脳より大きいから、したがって世界は言語より大きい。世界の「実相」は言葉で語れないと思う。さて、語れない「実相」は存在するのかしないのか。存在するとも存在しないとも言えない。「言う」のは言葉だから。もし「存在する」と言えば神秘主義だし、「存在しない」と言えば虚無主義だ。そのどちらも本当ではない>
○神秘主義・・・「神が存在する」「人生に意味がある」「世界は必然である」 ○虚無主義・・・「神は存在しない」「人生に意味はない」「世界は偶然である」
たしかに、神が存在するのかしないのか、私たちにはわからない。神の存在は私たちの論証能力を超えている。存在すると考えるのも、存在しないと考えるのも、それぞれの自由である。つまり私たちは有神論者にも無神論者にもなれる。野田さんの言葉を借りれば、神秘主義者にも、虚無主義者にもなれる。そして野田さんに言わせれば、神秘主義者にも虚無主義者にも、利口なのと馬鹿なのがいるらしい。
<利口なのは、それが嘘だと知りつつそうしている人々、馬鹿なのは、本当に信じ込んでいる人々。私は利口な神秘主義者になることにした。「世界におこる出来事はすべて必然だ」、「世界には目的がある」、「人生には意味がある」、「神は存在する」という嘘を選択することにしたが、これが嘘であることを忘れないようにする、ということだ>
<科学信仰は、馬鹿な虚無主義だ。ほんとうに神は存在しないと思い込んでいるし、ほんとうに人生は無意味だと信じ込んでいるし、ほんとうに世界は無目的だと決め込んでいる。それは恐ろしい思想で、まったくアナーキーだ。そのような世界で生きるのは、きわめてみじめなことだ。それが現代社会だ>
<私が利口な神秘主義を選択するのは、世界が馬鹿な虚無主義を選択しているからだ。もし世界が馬鹿な神秘主義を選択しておれば、利口な虚無主義を選択しただろうと思う。そこで私は、神は存在すると言うし、人生には意味があると考えるし、世界には目的があると主張する。ただし、それは嘘だと知っている。嘘だが、その選択をしないと、現代の不幸から抜け出せない>
ここまで読んできたら、野田さんの主張する利口な神秘主義とはまさしく森鴎外のいう「かのように精神」と軌を一にするものだと気付くだろう。しかし実のところ、利口な神秘主義もまた、「虚無主義」に過ぎない。それは言ってみれば、利口な虚無主義の擬態であるにすぎないからだ。このことについてはすでに、1月15日の日記「かのようにの虚無」で述べたとおりだ。
私の立場はたぶん野田さんの分類には入らない。なぜなら、人生や世界は無意味であると考える点で、虚無主義だろうが、私はそこにとどまろうとは思わないからだ。人生が無意味であり、世界が空であるとして、そこに意味を与え、価値を創造するのが私たち人間だと思っている。私は世界が空であり、無意味であることを恐れず、むしろ世界が無意味であることを自らの自由の証として喜ぶだろう。なぜなら、そこに私は自分の思想や詩を思いのまま書き付けることができるからだ。
しかしこれは私が発明した思想ではない。ニーチェの超人思想がそうであるし、仏教の「空の思想」も立場としては「虚無からの創造」である。般若心経に「色即是空、空即是色」とあるが、前半は「一切は空である」という虚無思想である、しかし、仏教はそうした虚無思想にとどまることはない。そこから出発して、「空即是色」と前向きに人生を創造する。
仏教は虚無主義でも神秘主義でもない。仏教の根底にあるのはこうした創造的虚無主義とでもいうべきものだ。私はこれを自分の人生の指標にして生きてきた。私はこうした知恵のある思想こそが現代の虚無から人々を救いだし、人と社会に豊かな未来をもたらす実践哲学だと思っている。
<世の中に神がいるわけでもなく、道徳や倫理や論理でさえも絶対的なものではないとすると、人生に意味はないことになる。こうした認識は人々をニヒリズムに導く。しかし、この問題を別の角度から眺めてみよう。そうすれば人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだということに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである>(橋本裕、「人生についての21章」より)。
|