橋本裕の日記
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2004年02月02日(月) 初秋

24.女の部屋

 長いこと、呼び出し音が続いた。その間に葉子が洗濯物を抱えて後ろを通った。受話器を置こうとしたとき、息子の泰夫が出た。
「父さんだ。遅くなる。食事はいらない」
「母さんはシャワーを浴びているんだ。伝えておくよ」
「たのむ」

 修一が切ろうとすると、泰夫の声が続いた。
「僕たちはこれから外食するよ。今日は母さんの誕生日だから」
「ああ、そうか」

 修一は言われて初めて気がついた。妻の芳子の誕生日など、これまでも気にかけたことはない。それはおたがいさまで、修一も自分の誕生日に何かしてもらったことはなかった。何日か経って、ああ俺も一つ歳をとったのかと思い当たる。

「それじゃ、母さんにご馳走してやってくれ。レストランの費用は俺が出すから」
「いや、お金は僕が出すよ。バイト代が入ったからね。あまりご馳走はできないけど、新栄にアットホームなフランス料理店があるんだ」
「そうか、それじゃ、母さんによろしくな」

 電話を切って、修一はソファに腰を下ろした。葉子と「さと」に行くのを止めて家に帰ろうかと思った。今なら、電話をすれば間に合う。もっとも妻は泰夫と二人での外食のほうを喜ぶかも知れない。修一は葉子のいれてくれたお茶を飲みながら、ベランダを眺めた。いつの間にか暮色が深くなっていた。

 葉子がキッチンから戻ってきて、
「シャワー、おつかいになりますか」
「いいや、いいよ」
 汗を流したかったが、下着の替えがあるわけではない。
「それでは、私……。よかったらテレビでもごらんください」
 葉子はコントローラーを修一の前に置くと、キッチンと居間のガラス戸を閉めた。

 2DKの質素なアパートだったから、脱衣室はなくて、キッチンの片隅で着替えなくてはいけない。キッチンの隣りが浴室のようだった。シャワーを浴びている葉子を想像して、修一は落ち着かなかった。テレビのコントローラーに手を伸ばしたとき、ステレオの上の電話が鳴って、修一はどきりとした。

 立ち上がったが、受話器を取っていいものか迷った。葉子の声がガラス戸越しにした。
「すみません。ちょっと出ていただけますか」
 葉子の声に促されて、受話器を取った。


橋本裕 |MAILHomePage

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