橋本裕の日記
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22.秋は夕暮れ
修一はコーヒーを飲み干した後、グラスの水に口を付けた。喫茶店に来てもうかなり時間がたっていた。修一は少し改まった表情で、 「ところで、さと子さんは、他に何か言っていたの」 「ええ、さと子さんが島田さんに娘さんがいるかも知れないって。島田さんにはほんとうに身よりはいないのでしょうか」 島田に娘がいるという話は初耳だった。
島田には隠し子の一人や二人はいても不思議はなかった。さと子は何か知っているのかもしれない。しかし、それは島田のプライバシーにかかわる微妙な問題だった。 「君がなぜ、そこまで……」 「受け持ちの看護婦として当然のことだと思います」 「それだけかな」
葉子の目がけげんそうに修一を見つめた。、 「記憶喪失を回復させるために、できたら病院の外に連れ出して、色々な人と面会させてあげたいのです。そのときは沢田さんも協力して下さいね」 「もちろんだよ」
修一は病室で島田の体を拭きながら、葉子の白い指が島田に触れているところを想像していた。そのときの感情を思い出して、修一は葉子のテーブルの上に置かれた白い手を見つめ、それから窓の外をながめた。街路樹に注がれていた日差しが翳っていた。
「日が短くなったね。六時前だというのに、夕暮れだね。カラスもねぐらに帰る時刻だ」 「私、高校時代に習った枕草子の一節を今でも覚えています。秋は夕暮れ。夕日の射して、山の端いと近かうなりたるに、からすのねどころへ急ぐさえあはれなり」 葉子の口にした枕草子が新鮮だった。言葉の響きがよかった。 「さすが紫式部だ」 「清少納言です」 葉子が白い歯を見せて笑った。
小学生の頃から現在にいたるまで、文学とは無縁の生活だった。会社で英語の論文ばかり読んでいた修一は、古典は遠い世界だった。 「ねぐらのあるカラスは幸せだな」 「沢田さんにも立派なねぐらがおありでしょう」 「らしいものはある。立派とはいえないな」 修一は頭を撫でながら、テーブルの伝票を手にとった。
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