橋本裕の日記
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2004年01月26日(月) 初秋

22.秋は夕暮れ

 修一はコーヒーを飲み干した後、グラスの水に口を付けた。喫茶店に来てもうかなり時間がたっていた。修一は少し改まった表情で、
「ところで、さと子さんは、他に何か言っていたの」
「ええ、さと子さんが島田さんに娘さんがいるかも知れないって。島田さんにはほんとうに身よりはいないのでしょうか」
 島田に娘がいるという話は初耳だった。

 島田には隠し子の一人や二人はいても不思議はなかった。さと子は何か知っているのかもしれない。しかし、それは島田のプライバシーにかかわる微妙な問題だった。
「君がなぜ、そこまで……」
「受け持ちの看護婦として当然のことだと思います」
「それだけかな」

 葉子の目がけげんそうに修一を見つめた。、
「記憶喪失を回復させるために、できたら病院の外に連れ出して、色々な人と面会させてあげたいのです。そのときは沢田さんも協力して下さいね」
「もちろんだよ」

 修一は病室で島田の体を拭きながら、葉子の白い指が島田に触れているところを想像していた。そのときの感情を思い出して、修一は葉子のテーブルの上に置かれた白い手を見つめ、それから窓の外をながめた。街路樹に注がれていた日差しが翳っていた。

「日が短くなったね。六時前だというのに、夕暮れだね。カラスもねぐらに帰る時刻だ」
「私、高校時代に習った枕草子の一節を今でも覚えています。秋は夕暮れ。夕日の射して、山の端いと近かうなりたるに、からすのねどころへ急ぐさえあはれなり」
 葉子の口にした枕草子が新鮮だった。言葉の響きがよかった。
「さすが紫式部だ」
「清少納言です」
 葉子が白い歯を見せて笑った。

 小学生の頃から現在にいたるまで、文学とは無縁の生活だった。会社で英語の論文ばかり読んでいた修一は、古典は遠い世界だった。
「ねぐらのあるカラスは幸せだな」
「沢田さんにも立派なねぐらがおありでしょう」
「らしいものはある。立派とはいえないな」
 修一は頭を撫でながら、テーブルの伝票を手にとった。


橋本裕 |MAILHomePage

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