橋本裕の日記
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2004年01月25日(日)

 彼の仕事は壁を修復することだった。彼はこれを天職だと思っていた。壁はとても古かったから、毎日手を入れる必要があった。ひびが出来ると、そこから雨水がしみこみ、たちまち穴があいてしまう。それを許してはいけない。

 壁の向こうに何があるのか、彼は知らなかったし、また知ろうとも思わなかった。なぜなら壁のこちら側には彼が愛するすべてがあったからだ。壁のこちらは安全であり、すべてが整然としていて、居心地が好かった。

 壁を修復する職人は彼の他にもう一人いた。しかしその男は彼ほど有能ではなかった。仕事熱心でもなかった。適当に仕事をさぼり、ときには重大な危機を見過ごしたりした。したがって、彼はときにはその怠け者の分まで引き受けなければならなかった。

 あるとき、役人がきたので、彼はこのことを訴えた。そのため、その怠け者は首になった。新しい職人は採用されなかったので、彼の仕事は以前よりさらに大変になったが、彼はそのことを不満に思わなかった。むしろ怠け者が視界から消えたことで、せいせいした。

 ある日役人が市民代表の男を連れて視察に来た。仕事に精を出していると役人の声が聞こえた。
「彼が一人でこの壁を守っています」
「それはごくろうさんなことですね」
「壁はどんどん傷んできています。彼一人の手に負えないでしょう」
「それは私たちも分かっています。しかし、壁の存在意義について懐疑的な意見が出ています。たぶん壁は壊されることになるでしょう」

 市民代表の言葉に彼は仕事の手を止めた。そして何か言おうとしたが、声が出なかった。
(壁が壊される)
 彼にとって、それは考えてもみないことだった。市民代表は言葉を続けた。
「壁を修復する費用もばかになりませんからね。壁がなくなれば、この壁職人の方も仕事を失います。しかし、当面は壁を壊す仕事があるでしょう」

 その夜、彼は眠れなかった。彼の家は代々壁職人だった。壁を守ることは一家の使命であり、彼自身の生き甲斐だった。壁の存在意義を疑うことは、彼自身の存在意義を疑うことだった。壁がなくなったら、どんな恐ろしいことが起こるか、彼らは考えたことがあるのだろうか。

 彼は夜中に起きだして、壁職人だったかっての同僚の家を訪れた。男はビールを飲んでいた。一目見て酔っているようだったので帰ろうとすると、
「壁が壊されるようだね。それで祝杯をあげているんだ。君も一杯どうだ」
 と愉快そうにグラスを差し出した。

 男は酔っていたが、これまで見たことがないほど、表情が晴れ晴れとしていた。
「おれはもうだいぶん前からこの日が来ることを望んでいたんだ。だから仕事にもせいがでなかったよ。君には迷惑を掛けた。あやまるよ」

 男の差し出したグラスを彼はじっと見つめながら、
「壁の向こうに何があると思う」
「さまざまな困難があるだろうね。それから自由があるよ」
 自由という言葉を、久しぶりに聞いた。それがどんな意味か忘れていたので、思いだそうと彼はしばらく考えていた。

(今日はきまぐれにこんな短編を書いてみました)


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