橋本裕の日記
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| 2004年01月24日(土) |
オール・フォア・ワン |
友人の北さんがさっそく掲示板で、「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」(One For All、All For One)は、社会主義革命の合言葉だということを教えてくれた。エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」のラストに出てくるのだという。これは、ロシア革命の前ぶれとなった1905年のポチョムキン号事件を描いた映画で、私も昔見たことがあるが、北さんに指摘されるまで気付かなかった。
反乱を起こしたポチョムキン号に帝政側は鎮圧艦隊を差向けるが、鎮圧側艦隊の水兵たちは発砲を拒否する。その感動的なラストで、水兵たちが声を合わせて叫ぶのが「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」(One For All、All For One)だという。
言われてみれば「ワン・フォア・オール」というのは、個人の上に社会を置く社会主義の思想に馴染むのかもしれない。そしてこれはまた、サッカーや野球などの集団的なスポーツの精神にも通じ、公共の秩序や安寧を重んじる右翼的な国家主義の精神にも通じる。右から左まで、いろいろな人々や団体に愛好されそうな言葉だ。
かってケネディ大統領は、就任演説の中で、「国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に何が出来るかを問え」(Ask not what your country can do for you. But, ask what you can do for your country.)と熱く語りかけ、この言葉は多くの人々の心を打った。国家や社会のために私たちは何をなにを為すべきか、ケネディの演説は人間としての生き方の根本を見つめ直そうというメッセージとして好意的に受けとめられた。
そもそも倫理というのは、「他人や社会のために役立つ」ということを基本にしている。その精神はまさに、「ワン・フォア・オール」である。この気持が国民に失われたら国家は瓦解し、社会は崩壊するしかない。だからこうした利他的な精神はとても大切なのである。
それではどうしたら、わたしたちは「ワン・フォア・オール」という立場に立つことが出来るのだろう。家庭のしつけや、学校や社会での教育でこれが可能だろうか。私はこれにかなり悲観的である。戦前や戦中の日本のように、教育勅語を暗記させ、強制してこれを叩き込めばよいという人もいるだろうが、所詮それが付け刃でしかないことは、敗戦後のモラルの崩壊を見ればよくわかる。
倫理はたんなる理屈や理論ではない。それは理屈や理論であるまえにひとつの感情である。この感情を論語は「仁」や「恕」という言葉で語り、孟子は「測隠の情」と呼んだ。現代の私たちならば、キリストにならって「隣人愛」というだろう。こうした倫理的で美しい感情をどうしたらわたしたちは身に備えることができるのだろう。
釈迦は経典の中で、「憎しみは憎しみから生まれ、愛は愛から生まれる」と語っている。そして仏教は「恩愛」という言葉をつかう。愛とは何か。それは釈迦によれば恩愛なのだ。母親が子を愛することによって、子供は愛を知る。そして愛を知った子供だけが、我が子を愛することを知る。
どうようなことは、隣人愛にも言える。人々から愛された人は、人々を愛することを知る。人を愛することが、自然な感情となるのだ。したがって「愛すること」の学習に大切なの理論や理屈や、まして強制や脅迫ではない。愛されることである。多くの人々から愛され、親切にされた体験こそが、その人の倫理の骨格になることができる。
こう考えてくると、「ワン・フォア・オール」の前に、「オール・フォア・ワン」が是非とも必要なことが理解されるだろう。人に優しい社会が、社会に優しい人を生むのである。とくに子供たちにやさしい社会を私たちはつくらなければならない。社会によって自分が大切にされているという実感が得られれば、ほとんどの人は「自然に」倫理的になる。そこに難しい理屈や哲学はなんら必要ではない。
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