橋本裕の日記
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2004年01月18日(日) ポツダム宣言をめぐって

 1945年7月、トルーマン、チャーチル、スターリンの三巨頭がベルリン郊外のポツダムに会して、戦後処理について話し合った。そして三国による「ポツダム宣言」が7月26日に発表された。アメリカからの放送を日本の受信局がキャッチしたのは、27日午前6時のことだという。これを日本の新聞は翌日の朝刊で報じた。

一、世界征服を企てるに至った者の権威と勢力は永久に芟除(せんじょ)せらるること、軍国主義は駆逐すること。

一、日本占領中、連合国により指定せられる地点は、われわれの目的達成確保のため占領せらるること。

一、カイロ宣言の条項は実施せらるべく、日本の主権は本州、北海道、九州、四国およびわれわれの決定すべき小島嶼に限定せられること。

一、日本兵力は完全に武装解除せらるること。

一、戦争犯罪人は厳重に裁判せられること。日本政府は日本国民に民主主義的傾向を復活すること。日本政府は言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと。

一、日本に留保を許さるべき産業は日本の経済を維持し、かつ物による賠償を支払い得しむるものに限られ、戦争のための再軍備を可能ならしめる如き産業は許さぬこと。この目的のため原料の入手は許可せらること。世界貿易関係に対する日本の参加は何れ許されるべきこと。

一、連合国の占領兵力は以上の目的が達成され、かつ日本国民の自由に声明せられたる意思に基く平和的傾向を有する責任政府の樹立を見たる場合は撤退せられること。

 新聞でこれを読んだ当時の国民はどう感じたことだろう。澤地久枝さんは「自決」(NHKライブラリー)のなかで、<日本人の多くは、昭和20年7月28日の新聞で、生まれてはじめて「民主主義」「言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立」などの表現を目にしたはずである>と書いている。

 当時の政府がこれだけの内容を新聞に報道することを認めたのはちょっと意外である。しかし、実はこれが宣言のすべてではなかった。新聞報道では9条と10条、13条の全文か一部が意図的に省かれていた。

九、日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。

十、われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。

十三、われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な壊滅があるだけである。

 澤地さんは<この文面によって、日本国民が戦う意味を失い、戦争指導にしたがうことをやめ、ポツダム宣言を受諾して平和な生活に戻りたいと考えることを為政者たちがおそれたために削除である。敵国人を「鬼畜」と信じこまされ、捕らえられる屈辱と恐怖心から多くの集団自決は生まれた。ここで削り取られた文章の持つ意味は小さくはない>と書いている。

 この日の新聞には「帝国政府としては米、英、重慶三国の共同声明に関しては何ら重大な価値あるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意を固めている」という政府の反応も書かれている。つまりこの段階で、政府は降伏するつもりはなかった。この後の展開を新聞記事から拾ってみよう。

<6日7時55分頃、B29二機は広島に侵入。焼夷弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙った模様である>(8月7日、朝日新聞)

<敵はこの新型爆弾の使用によって無辜の民衆を殺傷する残忍な企図を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢えてする裏には、戦争遂行途上の焦燥を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残忍行為を敢えてした敵は、最早再び正義人道を口にするを得ないはずである>(8月8日、朝日新聞)

 このあと9日にはソ連参戦と二発目の原爆が長崎を襲った。10日の新聞には「ソ連、対日宣戦を布告」「東西から国境を侵犯」「満州国内へ攻撃開始/北満北朝鮮へ分散空襲」などの見出しが並んだ。ソ連の対日宣戦布告文も載っている。さらに12日には「長崎にも新型爆弾」「一瞬にして広島変貌」と原爆の被害の深刻さを報じる記事が載っている。ここにきて、ようやく天皇はポツダム宣言受諾を決意する。

 8月14日、天皇の聖断を受けて陸軍省に帰った阿南大臣は、血気盛んな部下達に詰め寄られる。井田中佐が「閣下、決心変更の理由をお聞かせ下さい」とつめよると、阿南は語気を強くして、こう語ったという。

<畏れ多くも陛下が、この阿南の手をお取りになって、涙をお流しになりながら、「阿南よ、お前達の気持はよく分かる。苦しいであろうが我慢してくれ。国体のことは大丈夫であると朕は確信するから、お前もそう思ってもらいたい」と仰せになられた。これほどまでに直々のお言葉を頂いては、自分としてはこれ以上何も申し上げる事はできなかった。もし諸官が、これでも納得いかぬというのなら、まずこの阿南を斬れ。阿南を斬ってからやれ>

 天皇がじきじき手を取って泣いたというのは、阿南の創作だろう。こうでも言わなければ、血気にはやる将校達を押さえられなかったに違いない。阿南はこのあと大臣官邸に戻り、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という有名な遺書を残して、翌日15日の夜明け前に切腹自殺した。阿南陸軍大臣の自刃のニュースは日本国内のみならず、アジア、太平洋地域に展開している日本軍に報ぜられ、彼らの志気を奪ったという。

 戦時下の報道のありかたについては様々な批判がある。ときには大本営発表よりもさらに過激にしたようなそのスタイルは報道というよりプロパガンダのようなものだった。しかし、よく読んでみると、そうした「戦争遂行」のプロパガンダの影に、大切な情報がさりげなく置かれている。読む人が読めばわかるようになっていたようだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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