橋本裕の日記
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明治天皇の大喪が行われたのは大正元年九月十三日、陸軍大将乃木希典(まれすけ)は自宅で妻静子とともに自刃した。森鴎外はこれに感銘を得て、「興津弥五右衛門の遺書」をわずか五日間で書き上げた。
<相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸いなる事には異なる伽羅の大木渡来いたし居り候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差し下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望みを掛け互いにせり合い、次第に値段を付け上げ候。その時横田申し候は、たとい主命なりとも、香木は無用の翫物に之れあり、過分の大金を擲ち候事は然るべからず、所詮本木を伊達家に譲り、末木を買い求めたき由申し候>
<茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼なるべし、我れらこのたび仰せを受けたるは茶事に御用に立つべき珍しき品を求むるほか他事なし、これが主命ならば、身命にかけても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候は、その道のお心得なき故、一徹にさよう思わるるならんと申し候。>
<横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛けに掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たし候。>
<かくて某は即時に伽羅の本木を買い取り、仲津へ持ち帰り候。伊達家の役人はぜひなく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申し候は、主命大切と心得候ためとは申しながら、御役に立つべき侍一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹仰せ付けられたくと申し候。>
しかし、主君忠興は沖津に切腹を許さなかった。むしろ<其方が申し条一々尤至極せり、たとい香木は貴からずとも、此方が求め参れと申し付けたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、すべて功利の念をもって物を見候わば、世の中に尊き物は無くなるべし>とのことで、三斎公御名忠興の興の字を賜わって、沖津を興津と相改る名誉まで得た。それから、歳月が流れ、興津は主君の死に際会する。このとき主君の恩義に報いるために、殉死することを決意する。
<某つらつら先考御当家に仕え奉り候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引き立てを蒙りしは言うもさらなり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。>
ところで、乃木大将の殉死を、当時の人々はどう受け止めたのだろう。庶民の中には乃木大将の忠誠心に感銘をうけたものもいるだろうが、当時の知識人の反応はがいして醒めたものだった。たとえば志賀直哉は九月十四日の日記にこう書き留めている。
<乃木さんが殉死したというのを英子からきいた時、馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなんかが無考えに何かした時感じる心持ちと同じような感じ方で感じられた>
猪瀬直樹さんは「天皇の影法師」(朝日文庫)で志賀直哉の日記を引いて、「乃木殉死当日のおおかたの感じ取り方というものが、今日ではやや意外に思われるかもしれないがむしろ志賀に代表されていたとみられる」と書いている。そして、さらに生方敏郎の「明治大正見聞史」に書かれた、乃木大将の切腹を報じる新聞社の社内の様子を紹介している。その会話をざっと抜き書きしてみよう。
「乃木さんが亡くなったそうですね」(記者) 「乃木大将は馬鹿だな」(植字工) 「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたりに死なないたって、他の晩にしてくれればいいんだ。今夜は記事が十二頁にしても入りきらないほどあり余っとるんじゃ」(編集主任) 「惜しいなあ。もっと種のないときに死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないいんだ。無駄なことをしたもんだ」(外交部長) 「編集の方はそれでもまだいいが、工場は編集より一足ずつ後になって行くのですからねえ、たまらねえや。私ら、陛下の御不例以来、おちおち寝た晩なんかありませんよ」(職工長) 「ああ、いやだいやだ、。いやだよいやだよ乃木さんは嫌だ。新聞記者泣かせの自殺なんかして。ナンテマガイインデショウ」(記者) 「あのような現代の偉人の訃報に対して不真面目すぎる」(主筆) 「偽善者め」 「乃木が死んだってのう、馬鹿な奴だなあ」(社長) 「さすが社長はえらいぞ」 「社長万歳」(大勢)
これはある新聞社の様子だが、他社でも大方こんなものだったのだろう。ところで、その同じ新聞社が、翌日の朝刊では「軍神乃木大将自殺す」と破天荒な大見出しで、忠誠無二の軍神乃木大将を最大限賛美する内容だったという。生方敏郎の「明治大正見聞史」を「天皇の影法師」より孫引きしておく。
<忠誠無二の軍神乃木大将、すべての記事の文字は一頁より八頁まだ、どこまで行っても常にこのような尊敬を極めた美しい言葉で以て綴られておた。それはどの新聞を見ても同様だった。私はただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木大将を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編集記者らの筆によって起草され、職工殺しだと言った職工たちによって活字を組まれ、とても助からないとこぼしていた校正係によって校正され、そして出来上がったところは、「嗚呼軍神乃木大将」である>
後世の我々は、当時の新聞を第一級の資料として、当時の世相を考量するわけだが、新聞社の舞台裏がどのようなものであったか、報道がいかにおこなわれていたかを検証しておくことは大切なことだ。そしてこのことは、現代にも通じるメディアリテラシーの課題であろう。いずれにせよ、当時の知識人や報道陣の間で、鴎外の言う「かのように精神」がいかに蔓延していたかを示していて興味深い。この世論の動きに一番居心地が悪かったのが、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた鴎外そのひとではなかっただろうか。
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