橋本裕の日記
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2004年01月15日(木) かのようにの虚無

 森鴎外は49歳の時、「かのように」という題の小説を書いている。主人公の五条秀麻呂はドイツ留学体験をもつ若い歴史家である。彼は神話が歴史ではないことを知っている。しかし政治家の父である五条伯爵は、国民に神話を信じさせたいと思っている。国の秩序をたもつために天皇制の神話が必要だと考えるわけだ。

 天皇が神であるとか、万世一系であるとかというのは虚構に過ぎない。しかし、国民を一つにまとめ、近代国家として発展させるためにはこうした虚構も方便として必要なのだ。そのことが分かっているだけに、神話と歴史の板挟みになり、秀麻呂は懊悩する。そして、友人の画家の綾小路を相手にこんな告白をする。

「点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない」

「精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる」

 たしかに科学や学問はいずれも「学説」でしかない。原子や分子も実際に人間の目に見えるわけではない。あくまでも仮説である。しかし、仮説と言っても、それは論理的に構築され、実験や観察によって厳しく検証されている。けっして人間の主観性で自由になるようないい加減なものではない。主人公はこのあたりの認識が甘いようだが、次の宗教や芸術については、「かのように」の立場も成り立つだろう。

「宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子もずっと古く祭るに在すが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ちかのようにが土台に横わっているのだね」

「かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。」

「祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ」

 「かのように」は神や実在を信じていないのに、人生の方便のために、神やそれにかわる価値があたかもあるかのように、お互いにお芝居をして生きていこうという、ずいぶん不誠実で便宜的な生き方である。一言で言えば、これは「虚無」そのものの生き方である。はたしてこうした虚無に人間は耐えられるのだろうか。友人の画家はさっそく反論する。

「人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教わった師匠がその電気を取り続いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応のあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往かずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ」

「僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做はないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」
「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」
「所詮父と妥協して遣る望はあるまいかね。」

 主人公の歴史学者とその友人の画家との緊迫した対話は、そのまま鴎外の心の中で上演された劇だった。「かのように」生きることは、山県有朋や伊藤博文は耐えられだろうが、鴎外にはやはりつらかったのではないか。鴎外も「突貫したい」という気概はもっていたのに違いない。しかしその出口を見いだせないまま、彼は役人生活を続けた。山県有朋をご老公と呼び、その腹心として使える妥協の人生を余儀なくされた。

 しかし明治天皇の薨去に伴う乃木大将の殉死が鴎外に衝撃を与える。乃木という人は、山県や伊藤のように「かのように」で生きていた人ではない。明治天皇を心の底から崇拝し、これに殉じることを名誉と考える武士道の権化のような人物である。こういう純粋な一途さに鴎外の「かのように」は動揺した。そしてそうした「純粋な精神」への探求が始まるが、しかしそこに見出したのは、自分は乃木ではなく、虚無をかかえて生きなければならない近代人であるという認識だった。

 さらに大正6年のロマノフ王朝崩壊という衝撃が彼を襲う。鴎外は友人宛の手紙で、「老公(山県)などはさだめしご心痛の事と拝察つかまつり候。只今よりの政治上の局面は下す所の石の一つ一つが帝室の運命問題に関するを覚え候」と書いている。そして、ここから晩年に至る「元号考」への没頭が始まる。鴎外はこれを「最大著述」と呼んでいた。しかし、そこに感じられるのは、漢籍を拠り所にした国家の元号に対する異常な執着でしかない。当然ながら、後世の評価はきわめて低い。

 もっとも、死に臨んで彼は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラズ」という有名な遺書を残した。墓の文字に拘るのは鴎外が最後まで自分の生き方が気になっていたからだろう。鴎外は「ばからしい」とつぶやいて死んでいったとも伝えられている。彼は死によって、ようやく何者にも束縛されない自由へと「突貫する」ことができた。これが彼の選んだ「かのように人生」の少し淋しい帰結だった。

 ちなみに、鴎外の遺言は守られなかった。墓の側面に「大正十一年七月九日没」と彫られたからだ。「大正」という年号は安南人の立てた越という国の年号にあるということで、鴎外は「明治」とともにこれを日本の元号にはふさわしくないものとして嫌っていた。こんなものを墓に彫られては、鴎外の魂は冥界でも自由を満喫することはできない。心外なことだっただろう。

(参考文献) 「天皇の影法師」(猪瀬直樹、朝日文庫)
(参考サイト)「かのように」(森鴎外、青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678.html


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