橋本裕の日記
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2004年01月14日(水) 倫理と自己

倫理的ということはどういうことか。簡単に言えば、それは他人の役に立つということだ。つまり、自分を勘定に入れないで、社会やそこに生きる他者のことを考える利他的な生き方だといえる。もちろん、こうした利他主義は利己主義を排斥するものではない。

 利己的であって、かつ利他的であるという互恵主義がなりたつ場合があると思う。したがって問題は単純ではないのだが、ここでは利己主義でない利他主義を、とくに倫理的と呼ぶことにしよう。そうすると、倫理的であることの指標として、「自己脱却」ということが考えられる。

 松井選手をなどを見てもわかるが、ファンをとても大切にしている。恵まれない子供のことを考えて、夢を与えようとしている。そして、「愛」という文字はその成り立ちの中に、「相手の心を受け止める」という寛容性を示している。それも自分を「無」に出来るからだろう。自己脱却性は東洋的な「無」の境地や、古神道の説く「神ながらの道」にも通じている。

 武士道なども、自己脱却性を中心にすれば理解できる。宮本武蔵は厳しい剣の修行を通して、この境地にいたった。己を空しくするというのは、そうした厳しい鍛錬によって得られものだろう。職人や科学者もまた常に客観的に対象に向かい合い、自己を修練して、「ものの論理」を追求する。そうした姿勢は自己脱却の理想的な姿だ。

 なかでも「論理」はそうした自己脱却性の最たるもので、「倫理」の根底にあるものだ。ギリシャ人は、人生で大切なのは「真」「善」「美」であり、この三者が統一されたところに理想の人生や国家が実現すると考えた。つまり、倫理的であるということは、論理的であること、美しくあることでもある。

 自己脱却と似ているものに自己犠牲や自己忘却がある。新興宗教やファシズムはこの例だが、自己脱却との違いは、そこに厳しい「論理」があるかどうかだ。ほんとうの自己脱却は自己否定ではなく、むしろ自己を最大限に活かす道でもある。それはほんとうの自由への道でもある。倫理的であることによって、利他主義は利己主義と変わらないものになる。

 ラッセルが「幸福論」に書いたように、人間は心を外に開くことで幸せになれる。心を外に開くということは、自己脱却の第一歩である。しかし、真実であることの厳しさを忘れるとき、自己脱却は自己忘却に堕落する。そして、そうした幻想の中に生まれるのは偽りの幸せでしかない。そこに実りある自己実現は存在しない。


橋本裕 |MAILHomePage

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