橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2004年01月08日(木) 自決した軍人一家

 澤地久枝さんの「自決〜こころの法廷」(NHKライブラリー)を読んだ。陸軍士官学校騎兵科を首席で卒業しながら、陸軍大学へは進級せず、陸軍の参謀として中国大陸やガダルカナル島の最前線の作戦を指導し、また後には大本営報道部の将校として、軍部の宣伝をし、新聞や雑誌、講演などで活躍した一人の軍人が、終戦を迎えて、一家で自決するまでの話だ。澤地さんはこんな風に書きだしている。

<東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズリー号。その艦上で、昭和二十年九月二日、日本側代表が連合軍諸国に対する降伏文書に調印し、戦争は終わった。世界を相手に戦っていたのは日本一国であり、これが第二次世界大戦の終幕だった。

 この夜から翌三日の明け方にかけて、小学四年と二年の子供たちを手にかけ、父親も母親も自ら死んだ一家がある。・・・敗戦をさかいとして、高名な軍人達の自決事件が次々と報じられたが、そこにひっそりとかくれるような軍人一家の自決。肉親たちの記憶も不確かになりつつある一家の、「死」にいたる道をたどろうと思う>

 軍人の名前は親泊朝省(おやどまりちょうせい)という。彼はガダルカナル島などの激戦地から帰った後、大本営の報道部員として、新聞や雑誌、講演をとおして軍部の宣伝をしなければならなかった。澤地さんも彼の文章を読んだ記憶があるという。たとえばこんな文章を彼は戦時中に書いた。

<われわれは誇るべき我が国史に現れた女性としての神功皇后の如く、あるいは敵手に委ねることを潔しとせず愛児を刺して籠城した会津の女性の如く、烈しい中のも無限の物やさしさを含んだ烈婦としてのわが皇国女性の伝統をうけついで、各々その職場に勤労挺身し、この国難を克服するため一意増産に向かって烈しい気迫を以て驀進して貰いたいのである>(「婦人画報」十九年七月)

<大東亜戦争の総力戦たる特質、また戦場が広く、敵が物量を豊富に持ってるというような条件と現下の戦局から考えるとき、これからの戦を勝ち抜いていくには、国民全体の不撓不屈の頑張りということが何よりも重大な要件となってきました。極端を申せば、頑張るということが唯一の勝利への道となりましょう>(「婦人の友」二十年三月号)

 このとき親泊は大佐に昇格していた。大本営にあって、彼は本心から戦争の勝利を信じ、戦意高揚のための文章を書き続けた。しかし、軍部のありかたについては、かなり批判的だったようだ。その本心を親しい仲間にはこう、うちあけている。

<戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相が認識できず無理があり、危険である。中央部にもその種の人が多くて困ったものだ。ことに戦場に行くことを懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地に落ちた>

 親泊は陸軍士官学校第37期の卒業生だが、同期には2.26事件に連座して銃殺刑になった者が二人、禁固刑を受けたものが二人いる。禁固刑を受けた菅原三郎と親泊は親友であり、妹を彼に嫁がしている。この関係で親泊も軍から事情徴収をうけている。彼は政治行動に関与することはしなかったが、その容疑を受けたことは、のちに参謀として長く激戦地を転戦しなければならなかったことと関係があるのかもしれない。ガダルカナルから内地に召喚されたとき、彼はすでに上下の歯をすべて失い、別人のように頭がはげ上がっていたという。

  彼は敗戦後、遺書とおぼしき「草芥の文」(そうもうのふみ)という文章を、大本営の部局の中で印刷して配布している。彼はこの中でこれまでの鬱憤をぶつけるようにいろいろと書いている。あわせて、彼がアメリカ占領下の日本の将来について抱いていた危惧も紹介しよう。

<軍が本然の姿を失って政治に興味を持つ面を作った事は、実に大東亜戦争敗北の有力な原因であった。かくて官も民も横暴なる軍から離反して行き、就中、東条陸軍大臣の総理兼摂かつ参謀総長兼摂に迄至った事は、当に陸軍の自殺行為であり、之を責める重盛無かりしは千載の恨事である>

<某高級将校は「云う事を聞かねばニューギニアの第一線にやるぞ」と部下に放言していた。また機密書類を紛失せる」橋口中佐はその罪としてサイパンにやられたのである。軍人が第一戦に征くことが懲罰となるようでは、国軍が弱くなるのは当然である>

<世の人の多くは、敵の暴力・強姦、殺戮・略奪を恐れるのであるが、私は大和民族の永遠の生命の立場より見て、敵が暴力を用いることは決して恐れないのである。逆に敵が柔軟の手を用いてくるときが恐ろしいのである。物資を与え、彼らのいわゆる善政を施くことが恐ろしいのである。その結果は、我らの子孫は、婦女子は自らその貞節を彼ら敵に捧げることになるのである。つまり強姦よりは私姦によって骨抜きとなり、民族の血が濁り麻痺するのが最も恐ろしいのである>

 妻子を道連れにした親泊大佐の行為には疑問が残る。しかし、沖縄の王族の血を引き、南方の激戦地を転戦し、草木さえ食べるこの世の地獄の中で、おびただしい部下や戦友の死を見てきた彼にはとうてい生き延びる選択はなかったのだろう。しかも文章家であった彼は戦意高揚のため大本営報道部員として数々の勇ましい文章を書いてきた責任がある。その責任をとるため、彼は死を選ぶわけだが、そこには彼なりの「一貫性」がある。彼は又「草芥の文」でこうも書いている。

<特に最後に私は、軍の幹部・青年将校に一言いいたいのは、国力の増進に何の寄与をなさざる無益の死・自殺をさけよということである。この国家非常のとき、諸君の力こそ最後の国家の危急を救うべきものである。・・・小なる面目にこだわり、死に急ぎするなかれ>

 彼は自分が死ぬことで、多くの戦友の命を救おうと考えたのかも知れない。妻子を道連れにすることは最初考えていなかったようだ。澤地久枝さんは、やはり武人の妻として死にたいという妻の真剣な願いを斥けることができず、あとにのこるされた子供たちのことを考えると不憫に思い、一家で死地に赴いたのではないかと書いている。

 澤地さんは、参謀だった頃、その下で働いていた人々を丁寧に捜し出し、親泊の人となりを詳しく調べているが、いずれも部下にはとびきりやさしかったようである。弁当箱を返すときには、底にわざと食料を残しておいた。ひもじい思いをしている部下へのいたわりだったという。いつも穏和で、怒鳴ったりするのをみたことがなかったという。こうした性格の優しさが、最後の場面で出てきたのかも知れない。

 なお、親泊は東条には批判的だったが、阿南陸軍大臣は終始尊敬していた。自決する前に阿南は「米内を斬れ」という言葉を残している。親泊はこの言葉を知っていたらしい。澤地さんは、妻子を手に掛けた後、彼は米内海軍大臣を誅すべく、ひそかに行動を起こしたのではないかという。しかし、結局かれは米内の所在をつきとめることはできなかった。このことをほのめかす親泊の遺書が別に残っているのだという。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加