橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2004年01月04日(日) |
ひめゆり学徒隊の悲劇 |
戦争についてかかれた数ある手記のなかで、私が一番こころを動かされたのは、何と言っても沖縄戦における「ひめゆり学徒隊」の方々の手記である。仲宗根政善さんの「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(角川文庫)は、自らの体験を語りつつ、そうした彼女たちの手記を縦横に引用して、沖縄戦の現実を立体的に再現している。
1945年6月18日夜、沖縄軍の牛島司令官は軍の解散命令を出した。同時に学徒動員もとかれ、生徒や職員はあとは自分で判断して行動するようにということになった。迫り来る米軍の圧力の前に、第一外科、第二外科、本部の生徒たちは伊原の壕で、という具合に次々と解散したが、第三外科だけは解散が遅れて、米軍の襲撃にあった。その惨劇の様子を山城好子さんはこう書いている。
<轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、パッと青い光りが目に映じた。先生! 先生!と叫ぶ声。お母さん! お母さん! と呼ぶ声。兵隊の怒号も入りまじった。・・・すっかり意識を回復して気がつくと、私はとがった岩の上にあがっていた。私の上には兵隊の屍がのしかかっていた。屍にはウジがわき、腐った肉を蚕食する音がはっきりと聞き取れた。頭は石のように重く手足の自由もきかず、身体中がずきずきいたんだ。神谷さんがまだ手をしっかり握っていた。ゆり動かしてみても返事がない。よく見ると神谷さんの頭はなかった>
職員5名、生徒35名、看護婦と炊事婦29名、兵隊と民間人6名、あわせて約100名が第三外科壕で悲惨な最期を遂げた。現在はその洞窟の上に、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念館が立っている。仲宗根政善さんは学徒引率教師の生き残りとして、これらの創立に努力され、平和祈念館の館長もしてみえた。ひめゆりの塔には16名の職員と194名の生徒の御霊が祭られている。
ひめゆり学徒隊の手記を読めば分かることだが、そこに描かれているのは戦場の非人間的な現実である。乙女達はあまりの恐怖と緊張で生理を失い、中には精神異常を来す者もいた。その上、常に軍人の横暴と獰猛な性欲に怯えなければならなかった。三外科壕で九死に一生を得た座波千代子さんの手記から少しだけ引用してみよう。
<南風原陸軍病院壕にいたときから、満州から戦いに疲れて転進し、人間性をすっかり失い、獣欲にうえた兵隊のみにくい姿をいやほど見せつけられた。看護のつらさや、砲弾よりもくされきった兵隊のほうがもっとこわかった>
<あるとき、壕の中で、近くにいる兵隊の軍刀をこっそりぬいて見た。鋭いきっさきに肝をひやすものとおそるおそるぬいた私は、驚きあきれた。刀はまっかにさびれているのである。刀も兵隊もくされきっている。これが皇軍か。これで戦争に勝てるものかとつくづく思った>
<外間安子さんはいつもしずみがちで、中央の米俵のおいてあるそばにうなだれていた。突然、「あなたは生きる運命よ。私は死ぬ運命! 私の母は今帰仁の大井川にいる。私がここで死んだことを知らせてね」と、まっさおになり、目を槍のようにとがらせてさけび、半狂乱になって、私にしがみついた。ぞっとして、つき離そうとも、どうしても離せない>
<あたりを見渡すと、先生も、お友達も、看護婦も兵隊もおりかさなってふくれあがって死んでいた。誰の顔だか全然見わけがつかなかった。銀バエが何万匹とたかり、悪臭が鼻をつく。生きようという気力もなく、ただぼうぜんと坐っていた>
<南風原病院から私は獣欲にうえたくされきった兵隊におびやかされ通しだった。清らかなお友達のそばにそんな醜い兵隊の屍がよこたわっているのではないかと思いぞっとした。死のまぎわまでその恐怖がつきまとって離れなかった>
<ある日、卸屋に果物を仕入れに市場に行った。人ごみの中で、ある婦人から、「あなたはひめゆりの塔の生き残りだそうですね」と突然きかれた。「宮城藤子」をしっていますか」「はいよく存じています。大変親切にしていただきました」と答えるとわっと泣きくづれて抱きついて離さない。周囲には黒山のように人がたかった。私も泣きくずれるだけで、どうお慰めしてよいかわからなかった>
座波千代子さんは、戦争が終わってからも、毎夜、戦場の悪夢にうなされた。戦争の話をすると、その晩はきまって発熱をした。彼女がひめゆりの塔のある第三外科壕のあとを訪れる決心をしたのは5年もたってからだという。
<口が大きくあいている洞窟の中は漆黒の闇にとざされて、ひきこまれそうな気がした。岩につかまり、身をのりだしてやっと洞窟の底をのぞいた。おりかさなってなくなった先生、お友達の視線が、いっせいに射るように私に注がれてぞっとして身をひいた。全身がふるえた。・・・ついて来たお友達がよって来て、慰めてくれた。一歩一歩歩くごとに脚の傷がうずく。それよりも一層心の傷がいたむ>
第一外科壕で解散命令を受けた石川節子さんの場合は、65日間、戦場をさまよって、「戦争が終わった」と聞かされて米軍に投降したのは8月22日だったという。そのあいだ、死体が押し重なり、悪臭のこもった壕の中に寝て、昼は米軍の銃に怯えながら水や食料をあさる毎日だったという。
<入り口にさしてくる光りにお友達の死に顔が照らされた。銀バエが真っ黒くたかっていたので、ハンカチをかけてあげようと浩子さんがはい出ていった。しばらくしてのぞくと、ハンカチを風が飛ばしていた。疲労と空腹感で睡魔がおそい、あの黒いハエを見ながらも、もうハンカチをかけてあげることができなかった。>
こうして悲惨な沖縄戦が終わった。累々たる屍と、多くの残された人々の心に、生涯癒えることのない傷を残して。しらゆり学徒隊はじめ、戦死した方の多く人々の胸には死んで再び靖国神社で再会したいという気持があったのだろう。そうしたことを大切に思って参拝される遺族の方もたくさんおられるに違いない。そしてその胸にあるのは、ひとしく戦争の悲劇を二度と繰り返したくないという思いではないかと思う。
この正月に靖国神社に参拝した小泉首相もおなじく平和を願って参拝されたと思いたいが、現職首相の公人としての参拝には、靖国神社を政治的に利用しているのではないかという疑問が持たれる。戦前、天皇が軍部に利用されたのと同じ危うさを感じさせる。
小泉首相も靖国に眠る戦争犠牲者を大切にお考えなら、聖書にもあるように、ひとりの人間として、心の内で静かに哀悼されてはどうか。衆人環視の騒々しいパフォーマンスは、御霊にたいする冒涜でしかないだろう。そしてぜひ、この「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を心静かに読んでいただきたいものだ。
|