橋本裕の日記
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14.父と息子
新しい中学校に転校してから、泰夫は元気になった。「あんまり頑張るな。そこそこでよい」と修一は言い続けたが、泰夫は勉強や部活動にもそれなりに頑張って卒業した。高校時代も無難に過ごして、浪人することもなく目標の大学の法学部に入学した。
息子の登校拒否も遠い昔の笑い話のように思われた。いじめられた経験は息子にとっても貴重な人生の体験かもしれないと、修一は前向きに考えるようになっていた。しかし、大学生三年生の息子が、突然大学を辞めたいと言い出したとき、修一はまたいきなり昔の暗い谷底に突き落とされたような気がした。
もっとも、大学を辞めたい理由は、中学時代の登校拒否のときとは違っていた。とくに大学での人間関係に問題があるわけでもなさそうだった。
「本当に生きているという感じがしないんだ。もっと本物の生き方をしてみたいんだ。このままじゃ自分が駄目になる。大学を辞めて、しばらく自分をみつめてみたい」 「あと二年で卒業じゃないか。とにかく大学だけは続けなさい」 「二年後では遅いんだ。そのころはもう違った自分になってしまっている。僕は今の自分を大切にしたいんだ」 「お前の夢は裁判官になって、世の中に正義をもたらすことじゃなかったのか。立派な理想じゃないか」 「そんな理想は、もうどうでもいいんだ」
修一には理解できなかった。恐らく、サークル活動にでも時間をとられて、大学の高度な授業についていけなくなったのだろう。それならそれで、学部を変わるという選択もある。経済学部や文学部でもよい。とにかく、無事、大学だけは卒業させたかった。
「俺は高校を卒業して、働き始めたんだ。大学も自分で働いて卒業した」 「僕はお父さんのような生き方はできないし、したいとも思わない。朝から晩まで会社のことしか頭になくて、夢の中でさえ仕事をしているなんて、どう見ても異常だよ。そんなのアルコール中毒と変わらないじゃないか」
二人の会話は平行線のままだった。そして、泰夫は自分を譲らず、去年の秋に大学を退学した。修一は苦い敗北感を味わった。不思議なのは、中学時代の登校拒否ではずいぶん感情的に取り乱した妻が終始冷静なことだった。 「泰夫の奴、人生を棒に振ることになるぞ」 「大学を卒業して会社員や官僚になることだけが人生だとは思えないけど」 「俺も好きで働いている訳じゃない。一家を養うために、精一杯やっている」 「それだけじゃないでしょう」 「お前も泰夫と一緒に自活してみるんだな。そんな生意気な口は利けなくなるよ」
以前は冷静だった修一の方が、かえって頭に血が上っていた。しかし、会社での地位がなくなって、修一も少しずつ心境が変わっていた。 (懸命に働いて、気がついたら会社からも家族からもよけいものだからな。しかし、たしかにこれまでの俺の人生は少しおかしかったのかもしれない) 今はそんな淋しい反省が、ときおり修一の胸をかすめた。
少し傾いた日差しが、街並みに輝いている。S工業のビルにも日があたっていた。しかし、この二十年でまわりに新しいビルが建って、会社のビルは以前ほど堂々とは見えない。会社の屋上からは、もう御岳や伊吹山が見えそうもなかった。
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