橋本裕の日記
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| 2003年12月27日(土) |
若きサムライのために |
私がかって愛読した本に三島由紀夫の「若きサムライのために」という本がある。上田秋成の「菊花の約」について教えられたのもこの本だったが、他にもいろいろと考えさせられることが書いてあった。たとえば三島は文学について、こんなことを書いている。
<私は文学自体がモラルを喪失させるという危険をいつも感じてきた。そして、文学にモラルや生きる目的を見出そうとしている人たちが知らず知らず陥ってゆく罠を何度も見てきた。それだけに文学の青年に与える魅力の危険性についてよく知っているのである>
人間にとって一番大切なものはモラルである。モラルこそが人間の背骨なわけだが、これがいま溶けようとしている。その原因として三島は文学や芸術を挙げている。
<ナチス革命がニヒリズム革命と呼ばれたように、人々は本来芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行動の世界に移し、生の不安を社会に投影し、死との接触により生を確かめを無理やりつくり出し、戦闘的な行動によって、これを証ししようとした傾きがないではなかった。ところが、このような人為的な政治的行為は、いまや一ナチス・ドイツにとどまらず、世界的な風潮になったのである。それは、私が前からたびたび言うように、芸術の政治化であり、政治の芸術化である>
<現在の政治的情況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう>
三島は恋愛の成立させる要素に「羞恥心」があるという。そして羞恥心が失われた現代ににおいて、「恋愛が羞恥心の消滅ともに消滅」する運命にあると予言する。もっとも三島のいう羞恥心は肉体的なものではない。もっと精神的な問題だ。
<日本の女性も、かって羞恥心にあふれていたころは、かえって人前で子供におっぱいをやることを何とも思わず、また男女混浴さえ堂々と行われていた。羞恥心は単に肉体の部位にかかわるものではなく、文化全体の問題であり、また精神の問題である>
最後に、三島が若きサムライに残した遺言に耳を傾けてみよう。
<私は『武道初心集』を読みかえすごとに、現代の若いサムライが勇者か不勇者かを見る区別は、もっと別のところに見なければなるまいと思う。それは何であろうか。それは非常事態と平常の事態とを、いつもまっすぐに貫いている一つの行動倫理である。危機というものを、心の中に持ち、その危機のために、毎日毎日の日常生活を律してゆくという男性の根本的な生活に返ることである>
これを読んでいると、三島がなぜ剣道に引かれていったかがわかるような気がする。三島自身は、剣道によって「文学の毒」「ニヒリズムの沼」から脱出できたと告白している。自分の内部に恐ろしい毒を持っている人間はやむをえないが、他人の毒に染まって文学に熱中することはない。「できれば文学熱に浮かされている青年達が、もっとはやく目がさめてほしいのである」と書いている。近代的な文学や芸術が人間のモラルを破壊しているというのは、晩年のトルストイの思想にどこか似ている。
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