橋本裕の日記
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新渡戸稲造は「武士道」に「武士道は刀をその力と勇気の表徴となした」と書いている。武士の魂は「刀」に象徴される。ところで、刀は武器であり、人をも殺傷する凶器である。武士はなぜこんな物騒なものを常に携帯しているのか。その理由はそれが、武士の魂の表徴だったからである。「武士道」から引こう。
<武士の少年は幼年の時からこれを用うることを学んだ。五歳の時武士の服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで玩んでいた玩具の小刀の代わりに真物の刀を腰に挿すことにより始めて武士の資格を認められるのは、彼にとりて重要なる機会であった。この部門に入る最初の儀式終わりて後、彼はもはや彼の身分を示すこの徴を帯びずして父の門をいでなかった>
多くの武士にとって、それは武士道の魂の象徴というより、たんなる封建的身分の象徴だったことは明らかだ。しかし中にはほんとうに武士らしい武士もいたことだろう。たとえば吉田松陰がそうだし、自ら刀を捨てて郷里に帰った中江藤樹などがそうだ。
勝海舟は刀を決して抜けないようにして結わえていたそうだ。「人に斬られても、こちらは斬らぬ」という覚悟からだったという。実際、「私は人を殺すのは嫌いで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃がして、マアマアと言って放っておいた」と語っている。
さらに時代をさかのぼれば、「平家物語」に描かれた武将、熊谷直実の話が浮かぶ。1184年、須磨の浦で彼は平家の若い武将を組み伏せた。自ら名乗りを上げ、相手の名を問うが答えない。そこで兜を押し上げて見ると、まだあどけない少年だった。彼は驚き、彼を助け起こした。
「あな美しの若殿や、御母の許へ落ちさせたまえ。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず、敵に見咎められぬ間にとくと逃げ伸びたまえ」
しかし敦盛はきかず、「首を打たれよ」と譲らない。そこへ双方の兵が押し寄せてきた。熊谷は観念して、「名もなき人の手に亡しなわれたまわんより、同じうは直実が手にかけ奉りて後の御供養をも仕らん」と言い、刃を少年の首にあてた。熊谷は戦の後、刀を捨て、頭を刈り、僧衣をまとって、その生涯を少年の供養のための行脚に過ごしたのだという。
この直実の振る舞いは特殊なものではなかったらしい。新渡戸は「かかる場合組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比べ力量の劣らぬ剛の者でなければ、血をながさぬことが戦いの作法であった」と書く。お互いに名を名乗り合うのはこのためだった。自分より力量の劣る者、身分の低い者を斬るのは「武士の名折れ」であり、「刀の汚れ」であったわけだ。
武士は論語を学んだ。それから、「測隠の情」で有名な孟子を読んだ。人生論や哲学のような書を著し、これに親しむ者もいた。さらに和歌や俳句を学び、書画や茶道も長けた者もいた。「もののあはれ」を知ることも、武士のたしなみであり、それはまさしく日本の武士道の大切な要素でさえあった。ふたたび、「武士道」から引いておこう。
<孟子の力強くしてかつしばしばすこぶる平民的なる説は、同情心ある性質の者には甚だ魅力的であった。それは現存社会秩序に対して危険思想である、反逆的である、とさえ考えられて、彼の著書は久しき間禁書であったが、それにかかわらず、この賢人の言は武士の心に永久に寓ったのである>
日本は武士階級が革命の担い手になり、ついには封建体制をくつがえした。いま、その頃の日本の歴史をいろいろと調べているが、武士道が大きな役割を果たしていたと私は考えるに至っている。
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