橋本裕の日記
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仏教でもキリスト教でも、人間は本来罪深い存在だと説く。罪深い人間がいかにして救われるか。そこで神さまや仏が現れて、これを信じれば、ありがたやありがたや、ということになる。神仏を信じなかったらどうなるか。永遠の地獄に堕ちなければならない。
ルソーやカントは人間の自然状態は絶対的に無邪気なパラダイスであるとした。ところがアダムとイブが「知恵の木の実」を食べて、分別に目覚め、突然罪深い自己を意識し始めたのだという。
人間は生まれながらにして罪深い存在であるというのは解らぬでもない。たとえば、私も幼い頃は平気で蛙や蜻蛉を捕まえて殺していた。ところがいつ頃か、それができなくなった。蚊を一匹殺すのでさえ、何となく後ろめたいのである。しかし、人間は他の生物を食べてしか生きては行けない。仏教の「不殺生戒」を守ることは、原理上不可能なのである。これが私にとっての「原罪意識の芽生え」といえば言えそうである。
ところが新渡戸稲造によると、神道の神学には「原罪」の教義がないという。人の心本来善にして神のごとく清浄であるという。こうしたすこやかで明るい思想に触れると、重くたれ込めた暗雲がきれいに払われて、さわやかな秋の青空を仰いだような、自由な気分になり、楽しくなる。
それでは自己の生存のために他の生物を殺すことは許されるのだろうか。それが自然の摂理である以上、もちろん許される。しかし、そのとき私たちは「いただきます」という感謝の心を忘れてはいけない。もちろん、無駄な殺生などあってはならないことだ。
私の見るところギリシャ思想にも原罪の意識はほとんどないようである。そこには人間や自然に対する底抜けに明るい信頼と希望が感じられる。ギリシャ思想の晴れやかさは、どこか日本の古神道のうららかさに通じている。
私自身は、人間を罪深い存在だとは考えない。だからキリスト教や仏教の原罪の考え方は好きではない。以前は罪の意識に苦しみ、「歎異抄」に魂を揺さぶられるような体験をしたこともあったが、今は次第にこうした感動から遠くなりつつある。
かわって好きになったのは、「万葉集」の豊かで明るく、おおらかな世界である。歳とともに本居宣長の「神ながらの道」に近づいてきたのかもしれない。「神ながらの道」とは、すなわち、「在ることを楽しむ」ことである。法華経に説く、「衆生所遊楽」の世界だと言ってもよい。
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