橋本裕の日記
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| 2003年12月17日(水) |
武士道に生きた新渡戸 |
新渡戸稲造(1862〜1933)が「武士道」(矢内原忠雄訳、岩波文庫)のなかで、日本古来の神道にふれて、こんなことを書いている。
<神道の神学には「原罪」の教義がない。かえって反対に、人の心本来善にして神のごとく清浄なることを信じ、神託の宣べられるべき至聖所としてこれを崇め貴ぶ。神社に詣ずる者は誰でも観るごとく、その礼拝の対象および道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられてる素鏡がその備え付けの主要部分を成すのである。鏡の存在は容易に説明ができる。それは人の心を表すものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。この故に人もし神前に立ちて礼拝する時は、鏡の輝く面に自己の像の映れるを見るであろう。かくてその礼拝の行為は、「汝自身を知れ」という旧きデルフィの神託と同一に帰するのである>
<我々にとりて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以上の意味を有する。それは神々、すなわち我々の祖先の霊の神聖なる棲所である>
自然や生物を、人間が生存するための「資源」と見る西洋思想にたいして、日本の神道は自然を神聖な場所と考え、しかもその自然から生まれた私たち人間をも、神に等しい者と考えてきた。これをねじ曲げたのが、天皇のみを神に見立てる国家神道だろう。そして神である天皇のために命を捧げた戦士を「英霊」と呼んだが、これは日本古来の神道の精神とは違っている。武士道でもない。
新渡戸は武士とは民のために、天下国家を論じ、天下のために働く者でなければならないという。そして義を重んじ、たとえ主君であれ、間違っているときは命をかけてこれを諫めねばならない。これが本当の武士道だという。
<臣と君とが意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途はリア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、君主をして欲するままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血を濯いで言の誠実を表し、これによって君主の明智と良心に対し、最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった>
「武士道」は英語で書かれ、<日本の魂>という副題で、1899年(明治32年)フィラデルフィアの出版社から刊行された。たちまち評判を呼び、ドイツ語、ポーランド語、フランス語、中国語、ロシア語、ハンガリー語などに翻訳され、版を重ねたという。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は自らこれを読み、絶賛し、友人に配ったという逸話も残っている。この書によって、日本の武士道は世界に広く知られることになった。
新渡戸はウイルソン大統領とはジョンズ・ホプキンス大学で同級生で親交があり、ウイルソンが提唱した国際連盟では、事務総長につぐ次長を勤め、イギリス人のドラモンド総長は各国に連盟精神普及のために講師を派遣する場合、「講演が巧く、そのうえ聴衆に感動を与える人物は彼の他にいない」という理由でいつも新渡戸を指名したということだ。
在任中、彼はロイド・ジョージ、ロマン・ロラン、ポアンカレ、パデレフスキー、ナンゼンなどと知り合いになり、彼が幹事を務めた国際連盟の学芸協力委員会には、キューリー夫人、アインシュタイン、ベルグソンが委員を務めていた。この縁で、大正11年にアインシュタインが来日している。大正13年にアメリカで排日的な「移民法」が制定され、日ごろ温厚な新渡戸もこの時は激高したという。大正15年、64歳の新渡戸は8年間勤務した国際連盟次長を辞任した。帰国した新渡戸は貴族院議員に勅仁された。
やがて、昭和6年に満州事変が始まり、軍事色が深まるなかで、彼は一貫して国際連盟よる国際協調と平和主義を貫いた。 「わが国を滅ぼす者は共産党か軍閥である。そのどちらがこわいかと問われたら、いまは軍閥と答えねばならない」 「国際連盟が認識不足だというが、だれも認識させようとしないではないか。上海事変に関する当局の声明は、三百代言と言うほかない。正当防衛とは申しかねる」
こうした発言に対し、日本の新聞は「新渡戸博士の暴言を8千万国民は是認するのか」と一斉に攻撃した。たとえば昭和7年2月21日の日本新聞は大見出しで、「国論の統制を乱す新渡戸博士の暴論」と書き、時事新報は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、少壮将校ら立つ」と書いた。
当時70歳だった新渡戸はたまらず4月にアメリカに立つ。フーバー大統領と懇談し、アメリカ各地で講演し、ラジオにも出て、日本の立場を説明します。しかし、この年に5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。もし新渡戸が日本にいたら、間違いなく狙われていたことだろう。
翌8年3月、日本は国際連盟脱退。同年9月、71歳の新渡戸は腹痛を訴えアメリカで倒れた。そして10月16日、ビクトリアの病院で、アメリカ人の夫人に看取られて永眠。日本の行く末を案じていた新渡戸は「いま死にたくない」と漏らしていたという。新渡戸の父親は南部藩の藩士で、彼はその7番目の末っ子だそうだが、思うに、新渡戸こそ、武士道を体現した一人の日本人だったのだろう。しかし、それだけに、「武士道」の限界も知っている人だった。「武士道」から引用しよう。
<今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想−−仏教の慈悲思想もこれに付加すべきか−−はキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。人は臣民以上のものとなり、公民の地位まで発達した。否、彼らは公民以上である−−人である。戦雲暗く我が水平線上を覆うといえども、吾人は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信じる>
星新一の父・星一は苦学しながらアメリカで勉学し、製薬会社を起こした人だが、新渡戸と親交があったという。その縁で星新一は「明治の人物誌」(新潮文庫)の中に「新渡戸稲造」を収めている。私は星の文章を参考にしてこれを書いている。
新渡戸は死を前にして、アメリカから一時帰国し、天皇の下問に答え、アメリカの事情を話している。新渡戸の健康の回復をまって、彼を駐米大使に任命することがすでに内定していたのだという。新渡戸の死を、アメリカの各新聞は「日米の最大の調停者を失った」と大きく報じた。このあと、日米関係は坂道を転げ落ちるように悪化して行った。
しかし、新渡戸には大きな財産があった。それは京大教授、第一高等学校の校長として、鶴見俊輔はじめ、おおくの有意な人材を育てたことだ。星新一は「戦後の新しい日本の基礎を築いた人たちの名と略歴、それと新渡戸との関係を列記したいところだが、それをやったら膨大なものになってしまう。戦後日本の変化を大過なかったものと評価できるものとすれば、その原因のひとつとして、新渡戸稲造の名をあげていいのではないか」と結んでいる。
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