橋本裕の日記
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菊池寛の「話の屑籠」が、昭和7年から昭和20年まで14年間、「文芸春秋」に連載された。これを読んでいると、時代とともに菊池の言動や思想がどう変わっていったかや、当時の代表的知識人の戦争や軍部についての心情がうかがえる。こんなふうに私たちも変わっていくのだろうかと不安になった。この愚行を繰り返してはいけない。ここに一部を引用しよう。
<昭和7年>
総選挙には、片山哲氏のために二日にわたって応援演説をしたが、惜しいところで破れてしまった。無産階級の階級意識の成長など、はなはだ心細いものだと思った。選挙が現在のような制度で行われる限り、無産党など、日本で発達する見込みなど、ないのではあるまいかと思った。
日本の現在において、言論の自由がなくなっているのは、いちばん嘆かわしいことだと思う。十年前、二十年前には、まだかんかんがくがくの議論がきかれた。今は、新聞などでも、みんな顧みて他をいってる感じしかない。これは暴力に対する恐怖だと思うが、身を賭しても論陣を進める人が、五、六人はいてもいいと思う
<昭和8年>
産党巨頭の転向、河上博士隠退声明などで、為政当局が、ほくそ笑んで能事終れりとしていたならば、はなはだ危険である。街に満つ生活難と失業苦とは、ここ二、三年来少しも緩和されていないし、これを救おうとする社会政策が何ひとつ計画されているのをきかない。
政党の腐敗堕落を攻撃しながら、いざ選拳となると、やはり既成政党が過半数を占めるのであるから、気短な人たちが、直接行動以外革新の道なしと考えるのももっともである。国民大衆が、もっと政治的に目覚め、その政治的批判が、峻厳を極めなければだめである。五・一五事件などが起るのは、政治家の堕落と共に、こうした連中を漫然と支持していた国民大衆も、その責任の幾分を負うべきである。
<昭和9年>
この数年来、新聞雑誌の言論が微温的で、あらゆる人が、ほんとうにいいたいことをいい得ないで、顧みて他をいう人が多いのは、情ないことである。しかし、大新聞や大雑誌になると、一度弾圧を受けると被害が大きく、影響するところが大きいので、結局金持ち喧嘩せず、お座なりしか書かなくなっているからで、多くのインテリ読者は、みんな不満を感じているだろう。国家に諌争の臣なくんば国家危うしという言葉もあるが、あらゆることに対して、もう少し堂々たる反対論や異説があっていいと思う。五年前の日本は、そうだった。
<昭和10年>
我々は、十年前までは、米国恐怖症にとらわれて、何となく不愉快であったが、この頃は米国などを何とも思っていないような気勢が漲(みなぎ)っているのは、心丈夫ある。国民の意気が上がっているというのであろうか。他のことはさておき、それだけは愉快である。
伊エ戦争などを見るにつけ、国際間のことはなお、武力によるほかはないということを、誰でも痛感するだろう。国際間の協調平和などは、まだまだ未来の夢に過ぎない。堅実剛健な民族となって繁栄していくということがいちばん大事なことかも知れない。
<昭和11年>
著作権審査会委員の手当として、年末に、内閣から金百円貰った。お上から金を貰ったのはこれが初めてである。嬉しいようなくすぐったいような気がした。
二月二十六日の事件は、大震災と同じくらいのショックを受けた。実害は、大震災の時の方がずっと大きかったが、しかし今度の方が人変であるだけに、不安が永続きするわけである。こういう事件の結果、言論文章などがいよいよ自由を束縛されやしないかという不安が、いちばん嫌だった。
<昭和12年>
ひいき目で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である。教養から来る頭のよさが、いろいろな点に現れている。予算編成などでは、従来の内閣と大差ないとしても、日常の生活が明朗であるだけでも、国民としては有難いことである。北支事変突発に際しても、我々雑誌関係者にまで懇談するあたりは、従来の内閣などに比して、はなはだ進歩的であると思う。
出動する兵士を送り出すごとに、我々兵役の義務なき者は、誠に申し訳ない気がするのである。戦場の労苦は、並大低ではないだろうと思う。と同時に、華やかな戦勝の報に接するごとに、心を痛ましむるものは、戦死傷者の氏名である。国家としての存在、発展のためのやむにやまれない犠牲とはいえ、哀悼の念に堪えないのである。
<昭和13年>
戦争が、いつ終るかということを問題にしている人が多い。戦争が終るということは、貴い人命が失われることが終ることだから、もちろん大切な問題であるが、しかし戦争が終ったところで、北支、中支の新政権を確立するという大事業が残っている以上、戦争同様の覚悟が必要である。五年、十年、あるいはそれ以上、我々は、現在の覚悟を続けなければならぬと思う。
精神総動員の建前上、国民の気風を一新するために、あらゆる方面に積極的に鼓舞奨励が行われるべきであろう。消極的な取締まりや弾圧は、下衆だと思う。
<昭和14年>
駆逐艦の上で、講演した。「武士道について」というので、一度ラジオでやったことのある講演だ。折から、千メートルくらい上流に仮泊している駆逐艦は、さかんに江岸の敵を射撃していた。(もっとも僕は講演に夢中になっていたので、砲声は耳に入らなかったが)。東宝映画の金丸氏の話では、「士官たちの中には、三十年来の感激だといっていた人もある」とのことで、出来もよかったらしい。僕としては一世一代の講演かも知れぬ。
海軍の好遇は、一生忘れられないくらいであった。海軍軍人の人間としての立派さに、一番感心した。わずか九日の在艦であったが、退艦するときは、惜別の情に堪えないものがあった。
<昭和15年>
戦争中における国論の一致ということは、最も必要なことであろう。その国の国策が完全無欠であるかどうかは、結局時のふるいにかけてみるほかにはないのであるが、その国策が、最善策でなく、第三策もしくは第四策であろうとも、その国民が一致団結することが国力を発揮するゆえんであろう。第一策と第二策とに、国論が分かれて争うよりも、第三策でも第四策でもいい、いくらどんな下策でもいいから、それを遂行することに、一致団結することが必要である。
世界は、まさに戦国時代だ。国家としての実力のみが、ものをいう時代である。完全なる国防国家のみが、この戦国時代を生き伸びるであろう。政権の争奪などが行われ、内閣が代るたびに、国防方針が転変するような国家は没落していくほかはないだろう。
<昭和16年>
今度陸軍当局から、「戦陣訓」なるものが発表された。軍人たるものの根本精神から始まって、日常身辺の注意に至るまで、大に亙(わた)り微に入り、こういう性質のものとしては、完璧に近く、今次事変の副産物として後世に残るであろう。これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。
僕も、松岡外相のラジオの演説に感心した一人である。本当に自分の考えていることを、自分の言葉でいい、それに実感が裏付けられているような演説をする大臣はごく希だからである。先月号に書いた第二回文芸銃後運動は、情報局、翼賛会の後援を得て、いよいよ五月からやることになった。今度の方が、一流の都市でないだけ、交通その他の点において、骨が折れると思うが、全力を尽してやるつもりである。
ヒットラー総統が、ドイツの現在の活躍は、ドイツ民族の千年の運命を決定するといった。歴史上、一国のある時代の行動が、千年の運命を決定した場合は、指摘することができる。日本などでも、徳川幕府の鎖国令は、日本の三百年の運命を決定してしまったのである。それと同様に、現在における日本の行動は、将来数百年間のわが民族の運命を決定することは確かであろう。
<昭和17年>
国民皆兵である以上、小学校の三、四年生になれば、昔の武士の子が、十一、二歳で切腹の作法を教えられたように、国のために死する覚悟と作法とを教えるべきであったと思う。われわれ明治大正に育った人間は、学校教育において、あまりに生命を大切にすることのみを教えられすぎていたと思う。
自分は、少年時代日本海海戦を聞いたことを、一生を通じての愉快な思い出と考えていたが、最近それにも、劣らない快報であるハワイ、マレーの捷報を聴き、今またシンガポール陥落の快報に接せんとしている。よくも帝国隆興の盛時に生れ合わせたものだという感懐を禁じ得ない。シンガポールが陥落した以上、もはや軍事的には、日本は不敗の態勢を確立したといってよく、国民はいよいよ必勝の信念を堅くすると共に、米英の首脳者たちは、その戦意をはなはだしく挫折せしめられたに違いあるまい。
軍人は生命を捨てて国のために戦っているのである。われわれ銃後の人間は生命を捨てる機会は容易にないのであるから、他のあらゆる物を、国家のために捧げる覚悟をして戦うべきである。
<昭和18年>
山本元帥の戦死とアッツ島の全軍玉砕とはわれわれ日本国民に戦争に対する所存の臍を固めさせた。われわれはふかく、哀悼するが、しかしこのために、神経質になっては申しわけがない。逞しい感情と勁靱なる神経とをもって、一路戦争遂行に邁進することが、英霊に報いるゆえんの道である。親の屍を踏み越えよう、子の屍をふみこえよう、不撓不屈撃ちてし止まんのみだ。
大空の決戦へ参加せんとする青年の気魄は実にすさまじい。文壇人の中で久保田万太郎、浜本浩の息子たちが、敢然として志願したことはうれしいことでもある。先日、汽車の中で、昔の友人である銀行家の岡野清豪に会ったら、土浦へ入隊するという長男を連れていた。青年にこの気魄あり、飛行機の生産さえ順調ならば、どんな事態が突発しても恐るることはないと思った。
<昭和19年>
戦局はいよいよ悽愴苛烈になった。が、これくらいは覚悟の前である。否、この五倍十倍くらいは覚悟の前である。いな、この五十倍百倍になろうとも、われわれは度胸を据えて奮間しなければならぬ。真の戦いはこれからだ。日本国民たるものは、お互いを信じ合おうではないか。二千六百余年の伝統を持つ日本民族が、あらゆる苦闘の中をくぐりぬけて、不死鳥のごとく中天高く羽ばたく日が、近く来るべきことを自分は信じている。
神風特別攻撃隊のことは、筆舌に絶した神聖事だ。前に、真珠湾、シドニー湾の特別攻撃隊あり、今また神風特別攻撃隊あり、しかもその志願者が続出するということを聞いて、われわれの必勝の信念は強化された。これこそ日本人独特の攻撃方法であり、科学の絶対に到達し得ない方策である。敵米英は、その報に接して驚倒していることだろう。神風特別攻撃隊のある隊長が、夜中目標がないために一且引き返し、翌暁再び出発せられたという一事に至っては、人間の精神力の極致に達している。
<昭和20年>
国民はよく戦ったと思う。多少の不心得者があったとしても、多くの国民はよく戦ったと思う。負けた後で、責任を国民にも転嫁しようなどとは、無理を通り越して非道である。ただ、軍部の専横を防止すベき位置にあった議会とか言論機関とかの責任も軽いとはいえない。しかし、過去十数年にわたって、テロと弾庄とで、徐々に言論の力を奪われたのでは、一歩一歩無力になるほかはなかったのである。僕のような人間さえ、暗殺の目標にされて、私邸を十数人の警官によって護衛されたことがある。しかも、こんな時に暗殺された方が非国民のような感じになり、相手が憂国の志士になるのである。実際、彼らの公判の結果を見ると、多くは執行猶予であり、半年か一年後には、そのために右翼勢力として、天下に闊歩しているのである。
過去に日本を訪れた米国人中、最も日本人を認め、日本の事物を賛美してくれたのは、生物学者のモースであろう。彼の「日本その日その日」は至る所で日本人の正直、謙譲、温雅、誠実を賞賛してくれている。爾来数十年、日本人もたしかに悪化している。が、今でも、どこかにモースに認められた日本人のよさが残っているに違いない。戦争をしたのは、たしかに悪い。しかし、それは真に一部の人によって企てられたことが、今にアメリカ人にも分かるに違いない。私は、進駐軍の中に、第二、第三のモースが現れるよう望んでやまない。
(参考サイト) http://archive.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/hanashi/
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