橋本裕の日記
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2003年12月12日(金) 初秋

9.天使へのほほえみ

 耳の掃除をしていて、少女が笑ったという話を葉子にすると、彼女もまた同じような微笑みを見たことがあると言った。葉子の場合は、少女の体を拭いているときだったという。鳩尾のあたりを、ぬれタオルで拭いていると、ふと、少女がほほえんだらしい。

 そのことを婦長に報告すると、それは意識的な笑いではなく、無意識のうちに起こるただの反射的な微笑に違いないという。うまれてすぐの赤ん坊にも起こるらしく、新生児微笑と呼ばれているらしい。

 赤ちゃんのこの無心の微笑に出会うと、母親もまた誘われて、おのずと微笑を浮かべる。つまり母親が乳幼児の微笑に応えることで、そこに親子のコミュニケーションが成り立つわけだ。そして次第に赤ん坊の心が発達し、表情が豊かになり、それと同時に母親の方でも母性が発達する。

 母性本能といわれるものは実は幻想で、母親は乳幼児との「微笑みのコミュニケーション」を通して母親としての愛情に目覚め、子育ての喜びと責任を自覚して行く。母親は子供を産んだだけで本能的に母親になるわけではなく、こうしたプロセスを経て、母性愛が育まれていくのだという。

「赤ん坊は嬉しいから笑うわけではのではないのね。ある意味で本能としてインプットされているもので、他の動物には見られない人間に特有の現象らしいわ」
「ふうん。僕も君もそうして、笑顔でこの世に生まれてきたわけだね」
「フランスでは、天使へのほほえみ、っていうらしいけど。他の動物には見られない、人間だけの反応らしいわ」
「天使へのほほえみか。いい言葉だね」
 
 葉子の話によると、最近は、新生児微笑に答えようとしない母親がふえてきているらしい。ネグレクトされると、赤ん坊は無力感に陥って笑うことも泣くこともしなくなり、外部とのコミュニケーションをあきらめてしまう。さらに脳内ホルモンの分泌が乱れて発育異常が起きるという。そのうえ、そうしてネグレクトされた赤ん坊は夜中に頭を激しくベッドの床に打つという異常な自傷行動さえもみせる。

「そうした赤ん坊が成長すると、何だか恐ろしいね」
「大人とか世界を信用しなくなるのよ。そしてネグレクトを受けた子は親になっても自分の子供をネグレクトするの。最近、すごく乳幼児虐待がふえているでしょう」
「そうか。これは大変なことだね」

 自傷行為を行う赤ん坊が増えているとは知らなかった。その原因は乳幼児の微笑みに応えようとしない母親や周囲の大人の反応にあるのだという。なぜ人々は微笑むことをしなくなったのだろう。

 大人達が笑顔を忘れ、不機嫌が蔓延しようとしている。そうした時代に子育てをするのはむつかしいことかも知れない。そんなことを考えながら、修一は少女を見守った。しかし、少女がふたたび「天使へのほほえみ」を見せることはなかった。


橋本裕 |MAILHomePage

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