橋本裕の日記
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8.少女の耳
修一は少女ベッドの傍らに腰を下ろすと、葉子から渡された綿棒を持ったまま、しばらく少女の寝顔を眺めていた。寝顔はやすらかだった。顔をしかめたり、寝言を言ったりしたところを見たことがないから、眠りは深いようだ。夢を見てうなされることもないのだろう。
少女の眠りは脳の組織が破壊されたためだが、脳の写真の結果、損傷もいまは大方治っているようだという。だから、ある日、ひょっく目を覚まして起きあがるような奇跡が起こるかも知れない。修一はそんな話を聞いていたので、ときどき少女の肩を揺すって起こしてやりたくなるときがある。
しかし、今、綿棒の先を少女の耳に近づけながら、突然少女の目が開きそうな予感がして、修一の手が少し震えていた。手が震えるのが、自分でも少し意外だった。まるで少女の眠りが神聖なもので、それを犯そうとしているようだった。
修一は深呼吸をした。手の震えがいくらか収まり、修一は綿棒の先を、少女の耳たぶに触れてみた。少女の表情に変化はなかった。修一は様子を見ながら、綿棒の先を耳の中に入れ、動かした。少女の耳の中はかなり汚れていて、綿棒がすぐに焦げ茶色に変わった。修一はテッシュでこすり取ると、ふたたび穴に入れた。
すでに島田の耳の掃除は何度かしていたから、要領は解っていた。しかし、それよりも、修一はもっと古い記憶を思い出していた。それはわずか三歳の時に白血病で死んだ娘のことだった。病室で娘の耳垢をとってやったことがある。その遠い記憶だった。
耳掃除を終わって、修一は少女の耳に指先をふれた。親指と人差し指で耳たぶを引いたが、少女は表情を変えなかった。修一は口を近づけて、ささやいてみた。 「おじさんにも、娘がいたんだぜ。耳掃除もしてやったよ。もうそろそろおきないか。おじさんが、遊園地に連れていってやるよ。遊園地にはペンギンもいるんだぜ」
無言の少女にそんな他愛もないことを呟いていると、少女がふと、笑みを浮かべたのだった。それは一瞬のことだった。 「聞こえているのか。おい」 修一は少女の肩をゆすった。しかし、少女の笑顔は甦らなかった。
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