橋本裕の日記
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2003年12月07日(日) タブラ・ラサ

「タブラ・ラサ」(tabula rasa)というのは、「ぬぐわれた石板」という意味のラテン語で、ジョン・ロック(1632〜1704)が「人間知性論」の草稿に書いた言葉だという。ロックは後にこれを「白い紙」(white paper)と言いかえている。

Let us then suppose the mind to be, as we say, white paper, void of all characters, without any ideas ; Whence comes it by that vast store? …To this I answer, in one word, From experience : in that all our knowledge is founded, and from that it ultimately derives itself. (An Essay concerning Human Understanding)

(心は、いわば、文字を全く欠いた白紙であって、観念を少しも持たないと想定しよう。心はどのようにして、かくも多くの観念を手に入れるのだろうか。…これに対して私は、一言で、経験から(From experience)、と答える。この経験に、我々の一切の知識は基礎を持ち、究極的には、この経験に我々の一切の知識は由来する)「人間知性論」

 ロックは人間の知識は経験を通じて得られるものであり、何も経験していない段階では心は白紙の状態だという。そしてこうした考え方は、その後「イギリス経験論」として受け継がれていく。社会改革や教育の重要性がここから導き出され、イギリスは名誉革命を成功させ、議会制民主主義を確立した後、自然科学、政治、経済、社会、いずれの面でも世界をリードする立場になった。

 ロックのこの考え方は、アリストテレスの「経験論」にまでさかのぼることができる。これに対して、プラトンのイデア説にさかのぼる大陸観念論は経験以前を強調する。たとえばカントは人間の認識は経験に先立つ先天的な枠組みの中で可能であると考えて、プラトニックな立場からロックの経験論を批判している。

 認識のシステムは経験によって作られるのか、経験がシステムを作り上げるのか、これは鶏が先か卵が先かという議論に似ている。常識的に考えれば、認識は脳の働きであり、脳の構造や機能は遺伝的に決定される部分が大きい。さらに、私たちの認識や思惟は文化的・歴史的に形成された言語システムに依存している。したがって、ロックの「白紙」というのは、当然こうした遺伝的・文化的な条件を組み入れた上で主張されるべきであろう。

 現代は、これとは対立する「プログラム機械論」とでも言うべき人間論が学会でも一般社会でも大手を振って歩いている。その大本をたどれば、1976年に出版されたリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(Selfish gene)にたどりつくが、彼は生物は遺伝子を次世代へと伝えるための一時的な乗り物(ヴィークル)で、遺伝子の目的は自己のコピーをいかに多くつくるかに尽きると主張している。この立場に立てば、一見、利他的とみられる行動も、実際には自分の遺伝子をより残すための戦略に過ぎないことになる。

 最近になってこうしたDNA至上主義の生命観が世界的に流行し、日本ではたとえば竹内久美子さんがこれに動物行動学の知識を取りいれてたくみに書いている。私はこうした風潮に、ある種の危惧を抱いている。生命のすべての行動を遺伝子の利己的な行動から説明するという一元論は、ダーウイン主義の超現代版ともいうべきで、生命というものをDNAの立場からあまりに一方的にとらえた、悪しき科学思想の代表のような気がするのだ。

 たしかにDNAは生命の基本的な設計図であり、生命現象の基礎だが、人間の場合、その基礎の上に何を築くかは私たちの自由に委ねられている。私たちはDNAの乗り物でもないし、これに一方的に支配されているわけではない。こうした主張の行き着く先に何があるのか、あらたな戦争とファシズムでなければさいわいである。あえて、イギリス経験論の祖ともいうべきジョン・ロックの「タブラ・ラサ」の原点に立ち戻り、民主主義の精神を尊重したいと思うゆえんである。


橋本裕 |MAILHomePage

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