橋本裕の日記
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| 2003年12月04日(木) |
現代に生きる十字軍の歴史 |
昨日の北さんの雑記帳の題は「フリードリッヒ2世とアルカーミル」だった。神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世とイスラム王朝君主アルカーミルの感動的な物語である。フリードリッヒ2世はローマ教皇から破門されたが、武力を使わずに粘り強く交渉し、ついにイスラムの王と聖地エルサレムをともに分け合うという平和条約をむすぶ。
いかにして、フリードリッヒ2世(1195-1250)は、エルサレムに平和をもたらすことが出来たのか。先週放映されたNHK「文明の道」<十字軍>が、バチカン機密文書館で見つかった当時の資料などを駆使し、聖地エルサレムの知られざる歴史を生き生きと描いていた。その解説は北さんの雑記帳に譲るとして、ここでは十字軍の歴史について、少しだけ記しておこう。
1071年、セルジュク・トルコはビザンツ軍を破り、アナトリアを占領した。ビザンツ皇帝から援軍を要請された、ローマ法王ウルバヌス2世は、これを東西両教会の統合の好機と考え、「聖地回復」におもむく者は罪の贖いを赦される、と扇動した。こうして、1096年、フランス・ノルマン騎士軍を主力とする第1回十字軍が派遣されることになった。
翌年約2万の大軍がコンスタンティノープルに入った。1099年、十字軍はファーティマ朝支配下のイェルサレムを占領し、キリスト教徒によるイェルサレム王国が建国された。このとき多くのイスラム教とが虐殺されたという。
1147年、第1回十字軍の際設定された領地が、ゼンギ朝ヌレディンによって占領されたため、第2回十字軍が派遣された。フランス王とドイツ帝も参加し、共同してダマスクスを包囲したが、結局これを落とすことはできなかった。
1171年、ヌレディンの補佐官サラディンはエジプト・シリア・北イラクを統合するアイユーブ朝を開いた。このときシーア派の支配下にあったエジプトにスンニ派が復活し、イスラム勢力の分裂が克服された。セルジュク朝にかわってイスラム世界のリーダーとなったサラディンりは、1187年、ハッティンの戦いで西欧軍を破り、イェルサレムを奪回した。
これに対して、行われたのが第3回十字軍(1189−92)である。今回はイギリスのリチャード1世(獅子心王)も参加し、サラディンと戦った。しかし結局、聖都巡礼の保障を得ただけで、聖地エルサレムはイスラムの手に残された。
1202年の第4回十字軍は船を提供したヴェネツィアの要求により、コンスタンティノープルにおもむいて、武力でこれを占領し、掠奪・暴行をほしいままにし、ラテン帝国を建てた。十字軍の戦士はビザンツ帝国を分割し、ビザンツの帝室は小アジアのニケーアに逃れた。
そして問題の皇帝フリードリッヒ2世の参加した1216年の第5回十字軍である。エジプトを攻撃し、カイロを占領しようとして失敗した。この失敗によりローマ法王に破門されたが、彼はこれを無視して、第6回十字軍(1228−29)を起こした。サラディン死後、アイユーブ朝では3人のスルタンが立って抗争していたが、エジプトのスルタン・アルカーミルはフリードリッヒ2世と連合して、両者の協定によりイェルサレムの無血回復が実現された。
しかし、アルカーミルの死後しばらくして、聖地イェルサレムがホラズム系トルコ人イスラム教徒の手に落ちた。これに対抗してフランスのルイ聖王が第7回十字軍(1248−49)を編成した。彼はエジプトで戦ったが敗北し、捕虜となったのち大金を積んで釈放さるという屈辱を味わうことになった。その後、ルイ聖王は西方に勢力を拡大してきたモンゴルと同盟し、第8回十字軍(1270)を起こしたが、遠征途中で病死し、これが最後の十字軍となった。
ブッシュ大統領は9.11のあと、テロとの戦いを「十字軍」になぞらえた。11世紀末から200年にわたって、聖地エルサレムの領有をめぐってキリスト教徒とイスラム教徒が血で血を洗う戦いを繰り広げた十字軍の血塗られた歴史は凄惨である。しかしその中にあって、一滴の血も流さずイスラム側と粘り強い交渉を重ね、エルサレムに10年の平和をもたらした神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の叡智ある行動は、現代に生きる私たちに貴重な教訓を与えてくれそうである。最後に北さんの雑記帳から全文引用させていたく。
ーー「フリードリッヒ2世とアルカーミル」(北さんの雑記帳より)ーー あんまりよかったので、NHK「文明の道」の<十字軍>を見直した。現在のイラク戦争にもつながっていくイスラエル問題の元、エルサレムという聖地をめぐってのイスラム教徒とキリスト教徒の残虐の極致のような殺し合いの時代。神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世とイスラム王朝君主アルカーミルという、素晴らしい2つの知性が出会った。それは、イデオロギーの違いを科学的な見識が克服したとも言えるような劇的な出会い。2人によって、10年ほどではあったがイスラム教とキリスト教が平和共存した。
フリードリッヒ2世は、シチリアのイスラム文化の中で自然科学への関心を深め、イスラム教徒の好む鷹狩に関する本を執筆している。鷹と獲物になる鳥との生態を精緻に観察したその本で、繰り返し語られている言葉が「あるがままに見よ」という言葉だという。彼は、イスラム王朝の君主であるアルカーミルと会見する。アルカーミルもまた、自然科学、幾何学などを好む人物だった。2人は対立している宗教の話を避け、科学の話題で友情を深める。そんな彼が、運命の悪戯でローマ皇帝になってしまったのだ。
ローマ教皇の命令によって、彼もまた、最初は十字軍を率いて聖地エルサレムを奪還しようとする。しかし、チフスが流行し、フリードリッヒも感染して十字軍は闘わずして帰還する。激怒したローマ教皇は彼を破門してしまう。その時、フリードリッヒは考えられないような行動に出た。武力を使わずに、エルサレムを奪還する交渉に出向いたのだ。破門されたものが聖地を奪還するということは、ローマ教皇の権威に対抗することを意味している。交渉の相手は、あのアルカーミル。
おそらくフリードリッヒ2世は、かつての会見でアルカーミルなら平和交渉の可能性があると判断したのだろう。(このあたりのドラマは、何となく江戸城無血開城を実現した勝海舟と西郷隆盛の会見に類似しているように思った。)フリードリッヒ2世は、アルカーミルに「エルサレムを引き渡してほしい」と申し出る。もちろん、アルカーミルは拒否する。しかし、それから5ヶ月くらいにわたって、フリードリッヒ2世は粘り強く交渉にあたったのだ。その結果、2人の間に平和条約が締結された。残されている条約の規定を見ると、それは、両者が知恵の限りを尽くして作り上げたとしか思えない、実に見事な内容であった。
第1条で「イスラム王朝の君主アルカーミルは、フリードリッヒ2世がエルサレムを統治することを認める」と規定する。その代わり、第2条で「皇帝は神殿(イスラム教の神殿)の丘を侵してはならない。神殿の丘はイスラムの法に基づき、イスラム教徒が管理する」と規定したのである。
そして、第4条で「神殿の丘は、権威を尊重するならば、キリスト教徒も立ち入ることができる」と定め、その代わり第8条で、「キリスト教徒がこの条約に反する行動をとる場合、皇帝はイスラム王朝の君主を守る」という驚くべき内容の規定を設けたのだ。イスラム教とキリスト教は平和共存することになった。
ローマ教皇はフリードリッヒ2世に軍を差向け、教皇軍と皇帝軍の戦いが続いた。それは教会の権威に逆らった皇帝に対する制裁ということのようだが、応戦するフリードリッヒ2世の中には、アルカーミルとの約束を守る意識はあったに違いない。後年発見されたフリードリッヒ2世の遺体はイスラムの衣服を身に着けていた。そして、そこには、アルカーミルに対する次の言葉が書かれていた。
「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」
フリードリッヒ2世とアルカーミル。2つの知性は自然科学によって交流し、宗教の違いを超えて友情を育んだといえるのではなかろうか。こんな素晴らしい友情のドラマはめったにない。
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