橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年12月03日(水) アメリカ帝国主義

 昨日の朝日新聞の夕刊にハーバード大学教授の入江昭さんが「米帝国論の流行」と題して文章を書いている。それによると、今のアメリカでは米帝国主義論が<主として思想的に右よりの論者のあいだでもてはやされている>という。

<アメリカの知識人の多くが抵抗なしに自国を帝国ととらえ、中にはそれを肯定的に考えているものもあるのは、興味ある現象である。世界唯一の超大国、覇権国家としての米国、というイメージがその背景にあるが、ただ超大国あるいは覇権国家というだけではなく、アメリカ・エンパイアという名称を使って、帝国としての米国を積極的に評価しようとする>

<国際刑事裁判所や京都議定書などの取り決めに束縛されない、といった単独行動主義や、アフガニスタン戦争、イラク戦争などに見られる軍事行動などを理解するには、エンパイアとしての米国という見方はそれなりの説得力を持つ>

<圧倒的な軍事力、経済力を背景に国際社会に君臨する、少なくとも君臨しようとしている米国は、帝国の名称に値するかもしれない。ブッシュ政権の外交政策を支持する人々の間で、米帝国論がもてはやされているのも、理解できることである>

 米帝国論がどのような心情を背景にしているか、それは昨日紹介したケーガンの「ネオコンの論理」を読めば一目瞭然だろう。国際協調や国際紛争の平和解決を主張する弱者の論理であって、アメリカもかってはそうであったが、現在は力関係が逆転したので強者の論理で行動する。国際協定などに縛られずに、もはやどこにでもいつでも好きなときに軍隊を派遣し、単独でも武力行使をためらわない、という立場である。

 ケーガンは、国際協調や平和をいうのは、いかにも人道主義的で高尚に見えるが、その実そこにあるのは、弱者がサバイバルするための「戦略」に過ぎないと見ている。だから、覇権を握れば、もはやこのような弱者の「戦略」にしがみつく必要はないわけだ。国際社会における「理想」や「正義」がいかにご都合主義的なものであるか、それは平和主義や人道主義がそうした弱者の戦略であることから明らかだというわけだ。

 ケーガンはたびたびホッブスに言及する。このイギリスの絶対君主制を擁護した権力主義の思想家に、「民主主義国家アメリカ」の知識人がこれほど傾倒するというのはどうしたことだろう。ホップスに対抗する思想家としてカントの名前を上げるが、カントの「世界永遠平和」の理想主義はあまりに高尚すぎて、ホッブスの現実主義の前にほとんど無力である。

 ホッブスの現実主義を批判できるのは、どうように現実主義者であったロックの思想でなければならない。ところが、ケーガンはひとこともロックに言及しない。あきらかに勝負を避けているのである。そして御しやすいカントの理想主義を持ち出して、ホッブスに凱歌をあげさせている。

 アメリカ合衆国の建国の父たちがその思想的基盤としたのは、ロックだった。ロックこそはアメリカ民主主義を代弁する思想家である。「議会制民主主義」「三権分立」「法治主義」といった民主主義の原理はことごとくロックの実践的政治思想の成果であり、アメリカの憲法もそのたまものである。にもかかわらず、ケーガンはロックについて沈黙し、ロックによって否定されたホッブスにこだわる。このあたりにネオコンの論理のいかがわしさが感じられる。

 ケーガンは<アメリカの軍事力は人類の最善の手段、おそらくは唯一の手段だともいえる>と書いているが、こうしたことをぬけぬけと主張できるのは、彼が完全にホッブス主義者だからだ。しかしホッブス主義は世界に何をもたらすか、いや、現にもたらしつつあるか、その答えがイラクであり、アフガンであり、パレスチナである。最後に再び入江昭さんの文章を引用しよう。

<帝国主義としての米国は、グローバリゼーションに逆行する行為をしているのではないか。本当に米国がグローバル化された国際社会を推進しようとするのであれば、軍事よりは政治、経済、文化などの面で、もっと各国と協力していくべきなのではなかろうか>

 私はケーガンの言うネオコンの論理が自らがたびたび強調するような「強者の論理」だということに実は疑問を持っている。莫大な財政赤字と貿易赤字を抱え、繁栄の象徴である国際貿易センターを破壊されたアメリカは、強力な軍隊でその巨体を支えてはいるが、みかけほど安泰ではなく、むしろその基盤はかなり脆弱なのではないだろうか。

 ネオコンの論理は、強者の論理というより、「強者を装った弱者の論理」ではないかと思う。かってのナチス・ドイツや日本軍国主義者がそうであったように。本当の強者はもっと寛容で、自らを強者などと強弁したり、得意げに居直ったりしないものだ。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加